森稲荷神社と、於咲稲荷神社・浪除稲荷神社と、佃天台地蔵尊と、佃島砲台跡と ~東京都中央区の神社 | 九州下町おやじの珍道中

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2018年7月中旬の日本橋・八丁堀・佃島散策の続き。

 

 

石川島灯台」「佃島渡船場跡」「佃まちかど展示館」と佃島を散策した後は、「於咲稲荷神社・浪除稲荷神社」に向かいました。

 

 

 

石川島灯台・佃島渡船場跡・佃まちかど展示館のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12602371051.html

 

 

 

佃島のかつての海の跡に沿って、佃島の中を進むと、左手に神社が見えて来ます。こちらは「森稲荷神社」。

 

 

 

森稲荷神社」の由緒書き。佃島を拝領し居住することとなった森孫右衛門一族の推挙により孫右衛門の実弟森九左衛門の娘のを嫁とした佃忠兵衛則之が佃島の初代名主を務めることとなり、佃島の発展と住民の安泰を祈願するために、森家の敷地内(現在地)に稲荷神社を造り信仰したことが始まりです。

 

 

 

佃島には、「住吉神社例祭」のポスターが掲示してあって…。今年2020年は開催が難しいでしょうね…

 

 

 

メイン通りには、櫓が建てられ、提灯が吊るされていて、お祭りの準備が整いつつありました。

 

 

 

佃小橋を渡り、佃島から出て、すぐ右折すると、左側にまた神社が見えて来ます。

 

 

 

こちらは「於咲稲荷神社・浪除稲荷神社」。2柱がお祀りされているんですね。

 

 

 

鳥居をくぐり、手水所。

 

 

 

鳥居の正面にある御社。

 

 

 

こちらが「浪除稲荷神社」。

 

 

 

その右の御社に近づいて…

 

 

 

こちらが、「於咲稲荷神社」になります。

 

 

 

境内には、「さし石」があって…。

 

 

さし石」とは…?

 

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浪除稲荷境内の3個の力石には、すべて表面に刻銘された部分(朱塗りが施してある)が読み取れ、これらの力石には「さし石」の呼称名が共通して刻字されています。佃では、両手で物を上にあげて持つ意味の“さす”という言葉から、力石を「さし石」と称していました。(中央区HP「区内文化財」より)

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https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/kohokotyo/koho/h25/250721/bunka/index.html

 

 

なるほど!「力石」のことを「さし石」というのか~

 

 

 

こちらにも「さし石」があって…。

 

 

 

こちらにも。これで3つ目。

 

 

 

於咲稲荷神社・浪除稲荷神社」の境内は、さほど広くはなく、2つの社は寄り添うように建てられていました。

 

 

 

於咲稲荷神社・浪除稲荷神社」の道路を挟んだ向かいに、「佃天台地蔵尊 入口」という案内板を発見。矢印の指す方向はとても細い路地なんですが、折角なので、行ってみることに…

 

 

 

狭い路地を進んで行くと、路地の中程右側に御堂がありますので、中に入って…

 

 

 

佃天台子育地蔵尊縁起」。江戸時代中期の正徳5年(1715)~元文3年(1738)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が、地蔵菩薩を厚く信仰され、自ら地蔵尊を描き、江戸府内の寺院に賜り、地蔵尊建立を促されたと伝えられています。

 

 

享保8年(1723)寛永寺第6世輪王寺宮の推挙を得て、上野東叡山浄名律院が建立され、その際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるとも伝えられていますが、浄名院第38世に地蔵比丘といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。

 

佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖を持たれており、この像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいと言われています。

 

 

 

堂宇の中には、たくさんの提灯が奉納されていて…

 

 

 

奥には、石碑が安置されています。

 

 

 

その石碑に近づくと…おお!平たい板状の石に、地蔵菩薩が刻まれていますね!これは素晴らしい♪

 

 

 

その隣には、石祠があって…。

 

 

 

この「佃天台子育地蔵尊」の御堂の真ん中には大木が植わっているんですよね!幹回りがかなり太いので、かなりの高木になるようですが、このような形で植わっているのもまた、興味深いものがあります(^^)

 

 

 

佃天台地蔵尊」のお参りを終えて、細い路地を反対側に出て、その路地をパチリ。かなり狭い路地ですが、こちら側には、案内板も幟もあるんですね。

 

 

 

通りに出て、通りと言っても路地ですが、そこから「佃天台地蔵尊」のある方向を眺めると…2階建ての民家の屋根の上に、枝葉があるような、かなりの高木が見えましたので、この根元に「佃天台子育地蔵尊」はあるんですね。

 

 

 

佃天台地蔵尊」から、佃大橋から延びる大通りを南側に渡ると、「佃島砲台跡」の由緒書きがあるんですよね。

江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台」が築かれました。

 

 

江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航したことが契機で、2ヶ月後の同年8月、幕府は品川沖に台場(砲台)築造を始め、翌年11月までに「第一・第二・第三・第五・第六・御殿山下」の6基(品川台場)を完成させました。

 

佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことで、砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)の薩英戦争や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。

幕府は、より強固な防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造。

 

佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると、京橋区佃島南端海中にあり、東西約39間(約70m)、南北約40間(約72m)、面積約1,370坪で、元治元年に幕府が築き、明治になって修理を加えて、陸軍省に属すとあります。

 

明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地(現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。

 

 

月島に砲台があったとは!全然知りませんでした…(^^;

 

 

 

佃島砲台跡」の由緒書きがある場所は、こんな所です。正面奥に見える高架が佃大橋で、高架の向こう側に、佃島があります。

 

 

 

佃島砲台跡」の由緒書きから、地下鉄月島駅方面に向かうと、堂宇があります。

 

 

 

この御堂に近づいて…。「浄土真宗本願寺派 佃島説教所」とありました。

 

 

 

この後、月島駅から地下鉄に乗って、帰路につきましたので、このシリーズはこれにて終了です。

後日、また日本橋界隈を散策していますので、続編として、シリーズでお送りしますね。

長々とお付き合い頂きまして、ありがとうございました(^^)

 

 

 

 

森稲荷神社

東京都中央区佃1-4-4付近

 

 

於咲稲荷神社・浪除稲荷神社

東京都中央区佃1-8-4付近

 

 

佃天台子育地蔵尊

東京都中央区佃1-9-6付近

 

 

佃島砲台跡

東京都中央区月島1-1-8付近

 

 

 

 

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