天神宮と、宗麟公園(大友宗麟の墓・伝吉岡妙林尼墓)と ~大分県津久見市の神社・公園・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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先日20218月10日11日に、大分県佐伯市・臼杵市・津久見市の出撃レポをアップしましたが、二日目の津久見・臼杵散策もまた、シリーズでアップして行きますね。

 

 

2021年8月11日の大分県佐伯市・津久見市・臼杵市の出撃速報レポ

 

 

 

 

 

宿泊したホテルから、JR日豊本線津久見駅を通り過ぎ、南に向かって進んで行きます。

 

途中、鳥居を発見。扁額には「天神宮」とあります。

 

 

 

 

手前の石灯籠には、三猿が刻まれていて…これは面白い♪

 

 

 

 

鳥居をくぐり、すぐ左側の覆い屋の中には、石祠があって、その中には石仏が安置されています。

 

 

 

 

覆い屋の脇には、墓石でしょうか、五輪塔があって…

 

 

 

 

覆い屋の右隣にも覆い屋があって、中には馬頭観音でしょうか、庚申塔がありました。

 

 

 

この奥にも参道らしき山道が続いていたのですが、鬱蒼としていて、藪扱きをしないと登れないような状態でしたので、「天神宮」の社殿参拝は断念…涙

 

 

 

 

天神宮」から更に南に路地を進んで行きます。この日の一つ目の目的地は、「宗麟公園」。

 

 

 

 

途中、墓地があるのですが、そこに「民話 宗麟の里 由来記」という石碑がありました。

 

 

 

 

坂道を上って行くと、「宗麟公園」に到着です。

 

 

 

 

宗麟公園」の中に入って…山の斜面に沿って造られた公園なのですね。

 

 

 

 

ここ「宗麟公園」にやって来たのは、大友宗麟の墓があるからです。

塔屋のある建屋は、トイレです。

 

 

 

 

由緒書き「大友宗麟公墓」。

大友宗麟は、戦国時代、中北九州六カ国を支配した武将として、キリシタン大名として有名で、ここ中田引地(大分県津久見市)は、その宗麟終焉の地。樹齢100年を超える杉木立は、かつて「天徳寺の森」(宗麟が建てた教会)と呼ばれ、森の中は凛とした空気を漂わせています。

 

 

 

宗麟」という名は、永禄5年(1562)禅宗に帰依し、剃髪して名乗ったもので、宗麟津久見とのかかわりは40代後半、天正6年(1578)の日向進攻以前に遡ります。

天正11年、天徳寺に隠居すると、この地に長年の夢であったキリスト教による理想の国づくりを目指しますが、志半ばにして昇天。享年58歳でした。

当初はキリスト教式の墓に葬られましたが、秀吉によりバテレン追放令が発せられると、長男大友義統(吉統)は仏式に改葬しますが、その墓も荒廃してしまったといいます。

 

現在の墓は、寛政年間(1789~1801)旧家臣の末裔臼杵城豊により改葬されたもので、城豊は墓碑を新調し、長泉寺(市内宮本町)に供養を依頼したといいます。

 

墓石正面には「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士」、側面には「天正十五年丁亥五月廿三日春秋五十有八歳」、「九州二島伊豫官僚 従四位下兼左近衛少将 大友左衛門督源義鎮」と刻まれています。

 

時代が移り変わる中、堂宇も建て替えられましたが、昭和52年、上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され、磯崎新氏の設計のもと、キリスト教式の墓碑を並べ、今日みるような墓地に生まれ変わりました。

 

 

 

 

案内板の指す方向に進み、石段を上ります。

 

 

 

 

すると、広場のような空間があり、すぐ右側に、「大友宗麟公像」があって…

 

 

 

 

銅像の横には、由緒書きを刻んだ石碑があります。

大友宗麟」は享禄3年(1530)府内(大分市)の大友館で生まれ、父大友義鑑の横死の後を受けて天文19年(1550)21歳で大友21代の城主となり、豊後、筑前筑後、肥前肥後の6ヶ国と日向伊予の各半分を領し、勢威九州を圧し、大友の最盛期を築きました。

 

 

 

城主となった翌年、宗麟は日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルを迎えて教旨を聴き大いに心服し、以後キリスト教を庇護したため信者は日毎に増え、府内には西欧文化が栄えました。

天正6年(1578)神父カブラルから洗礼を受け教名をフランシスコとし、天正10年(1582)キリシタン大名大村・有馬とともに少年使節をローマに派遣。

天正14年(1586)島津と戦って敗れ、翌年豊臣秀吉の島津討伐がありましたが、天正15年(1587)津久見の住居で聖者の如く帰天。58歳でした。

葬儀は神父たちのよって盛大に行われ、墓もキリスト教式に建てられましたが、宗麟の死後1ヶ月の後、秀吉が耶蘇教禁令を発布したため、嫡子大友義統は仏式の墓に取り換えました。

その墓も荒廃し、200年後の寛政年間に臼杵の旧族臼杵城豊が堂宇を新築し新しい墓をこれに納めたのが現在の墓です。

 

 

 

十字架が刻まれたモニュメント。こちらが、大友宗麟の墓。キリスト教式ですね。

 

 

 

 

大友宗麟墓に近づいて…ドン・フランシスコ 大友宗麟と刻まれています。

 

 

 

 

大友宗麟のキリスト教式の墓石の並びには、覆い屋のある石塔があります。

 

 

 

 

その石塔に近づいて…「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士」と刻まれていますので、寛政年間(1789~1801)に旧家臣の末裔臼杵城豊により改葬された墓石になるのですね。

 

 

 

 

宗麟公園」を一回りしてみましょう。

 

 

 

 

石段を上って、振り返ると…おお~結構高い場所になるんですね。

 

 

 

 

公園内を進むと、石垣が見えて来て…城跡のような感じもしました。

 

 

 

 

宗麟公園」を一回り。公園の奥の沢には、みかん畑が続いていました。ここ津久見もミカンが名産ですからね。

 

 

 

 

再び、大友宗麟の墓の方に戻ると、祠があって…

 

 

 

 

ここ「宗麟公園」には、「吉岡妙林尼墓」もあるというので、探してみましょう。

 

 

 

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妙林尼(みょうりんに、生没年不詳)は、戦国時代の女性。大友氏の家臣・吉岡鑑興の妻[1]。吉岡妙林、吉岡林子[2]とも呼ばれる。史料はほとんど残っておらず、『大友興廃記』『両豊記』にその名が、ルイス・フロイスの文書に妙林尼と思われる人物の記録が登場するのみである。(後略)(ウィキペディア「妙林尼」

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古そうな五輪塔があります。これがそうなのかな…?

 

 

 

 

宗麟公園」を隅々まで回って…

 

 

 

 

この石垣の下にも、「大友宗麟公之像」があります。

 

 

 

 

探し回って、ようやく見つけました!「伝吉岡妙林尼墓」。

 

 

 

 

伝吉岡妙林尼墓」に近づいて…周りには墓石と思われる小さな石塔がいくつも並んでいました。

 

 

 

 

伝吉岡妙林尼墓」があるのは、この大友宗麟銅像と由緒書きを刻んだ石碑の後ろ奥。本当に分かり難い…(^^;

 

 

 

 

天神宮」をお参りし、「宗麟公園」で「大友宗麟墓」「伝吉岡妙林尼墓」をお参りした後は、津久見駅に戻りました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

天神宮

大分県津久見市津久見3974

 

 

宗麟公園(大友宗麟の墓・伝吉岡妙林尼墓)

大分県津久見市津久見

 

 

 

 

 

 

 

 

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