2020年9月19日の福岡県筑紫野市原田・福岡県八女市・八女福島歴史散策の続き。
「岩戸山古墳」の続き。
岩戸山古墳(その2)のレポ
「八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷」の「石人・石馬」の展示を進むと、おお~これは見たことがない形だ!こちらは「猪型埴輪」。古墳時代、6世紀のもので、立山山8号墳出土。
円筒埴輪も並んでいて…埴輪って、元々、円筒形のものを指していたそうですが…人や馬の形の埴輪を指すようになったために、円筒埴輪という言葉ができたそうです…(^^;
「人物埴輪頭部(乗場古墳)」(右)と、「単鳳環頭太刀柄頭」(左)。
こちらは、「道教破片(ヒメクロバエ蛹跡付着)」。古墳時代6世紀、鶴見山古墳出土。
手前の「殯とヒメクロバエの蛹跡」という説明書きがありました。
「殯(もがり)」は今のお通夜と同じで、亡き人をあの世に送る儀式で、現代とは異なり2週間程度、遺骸をそのままにしておきますので、遺骸はすぐ腐敗し、身体全体をウジが覆い、蛆は蛹になりますが、この蛹跡はその痕跡になります。
この後、遺骸は石室に入れられますが、この光景は日本書紀、神代、上「黄泉の国」に書かれている「イザナミの尊」のウジだらけの姿が思い出されます。
壺(左)や器台(右)もあって…
「葬送儀礼と古墳 墓前祭祀と須恵器」
地域の有力者が亡くなると、古墳が築造されて亡骸(遺体)は埋葬されますが、その時に執り行われる祀り事全般を葬送儀礼と呼び、被葬者をあの世(黄泉の国)に送るための儀式となっています。
古墳の前(墓前)では、死者との別れの祭祀が行うのですが、この時に使われる供物用の容器として須恵器が用いられます。
この須恵器にも、死者を無事にあの世に送り出す使命が与えらえていたのでしょうか…
「磐井の意志を継ぐ者たち」
磐井の後継者たちは、乗場古墳や鶴見山古墳などの大形前方後円墳を次々と築造。規模は90m前後で、岩戸山古墳より小型化しますが、6世紀中頃の九州では最大級の大きさです。
乱で敗北した一族ですが、平成17年度に行われた鶴見山古墳の調査において武装石人が発見されるなど、最盛期の勢力はヤマト王権にそがれながらも、強い地域色を出しながら一族再興の機会を窺っていたようです。
『地域支配の拠点「屯倉」の設置』
磐井の乱後、ヤマト王権は地方支配の一環として、各地に地域支配の拠点となる「屯倉(みやけ)」を設置。磐井の子「葛子」が献上した糟屋の屯倉を含め、その数は、筑紫・火国・豊国だけで9ヶ所にも上りました。
「本6号墳(真浄寺2号墳)」
5世紀後半に築造されたと考えられる直径30m超の大型円墳で、昭和35年の調査の折、石室内から短甲2領が出土。鉄製短甲や装飾付大刀などはヤマト王権から配与されたものと考えられ、被葬者は王権との関係が深かったものと思われます。
「本6号墳(真浄寺2号墳)」から出土した短甲はこちら。
キレイな形で残っているもんなのですね~♪
続いての展示は、鉄鏃(手前)、鏡板付轡(右奥)、轡(左奥)。
手前は、先程の由緒書きにあった装飾付大刀。右奥は、雲珠(うず)、中央奥は辻金具、左奥は、平縁四乳文鏡。
「筑紫君一族の側近者たちの墳墓?釘崎古墳群」
前方後円墳4基と円墳12基から成る古墳群で、5世紀末頃に築かれた2号墳を初代として、6世紀後半まで古墳築造が続きます。
磐井が出現する直前から、筑紫君一族最後の首長墓・童男山古墳まで続くことから、磐井とともに歩み、筑紫君一族と運命をともにした被葬者たちの姿が想像できます。
3号古墳からは、多量の鉄製武具とともに装飾大刀も出土しており、被葬者は武官的な印象がもたれる古墳群です。
右の方から、提瓶(さげべ)、脚付き有蓋壺、高坏、貝殻付銅製辻金具、鞍金具、金銅製杏葉、鉸具。
右から、ガラス玉、銅地金張耳環、鉄地金銅張帯金具(奥)。
左は、鏡板付轡になります。
「筑紫君一族の盟友たちが眠る 童男山古墳群」
6世紀中頃から末頃に形成された古墳群で、1号墳を盟主墳とした27基の古墳で成り立っていて、熊本県北部地域に多く存在するタイプの石室が構築され、内部には同地域で特徴的な石屋形や死床、石棚状の構造が見られ、一部には石人も認められます。
被葬者たちは、現在の山鹿地方から進出して来た一族と考えられ、「火国(ひのくに)」の系統で筑紫君と関係が深い「火中君(ひのなかのきみ)」の関係者である可能性があります。
「古墳時代終焉の序章 八女古墳群 最後の首長墓」
童男山古墳(1号墳)は推定直径48mの大型円墳で、福岡県内3番目の長い横穴式石室を持ち、内部には石屋形と呼ばれる安置施設と石棺3基がありました。
八女古墳墳では1号墳築造直前から前方後円墳が造られなくなり、最後に大型円墳が築かれ、以後、古墳は徐々に姿を消し、古墳時代は終焉を迎えます。
続いての出土品は、右から提瓶、𤭯(瓦へんに泉)(はそう)、高坏、鐙、金銅製圭頭大刀柄頭、銅地銀張耳環。
左の大きな石は、「正座した石人」。
「磐井の末裔たち」
乱後、岩戸山古墳に続き、善蔵塚古墳、鶴見山古墳、童男山古墳など首長墓と呼べる大型古墳が築造されており、筑紫君一族は滅亡することなく継続したものと思われ、日本書紀 天智10年(671)の条には筑紫君一族である「筑紫君薩野馬(さちやま)」の名称を見ることができ、乱後約150年経過した後でも、筑紫君一族は脈々と影響力を行使していたことが分かります。
『「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」 北部九州 兵站(軍事)基地化計画』
磐井の乱後、ヤマト王権は筑紫君や火・豊国等監視の為、北部九州各地に拠点となる屯倉を設置し、国造として臣下となった豪族の反乱など不測の事態に備えつつ、百済救援、新羅征討を継続。
北部九州には乱を鎮圧した物部氏や大伴氏一族が軍事的一団を従えて進出してくるようになり、北部九州の兵站(軍事)基地としての最前線化が顕著になり、火君は得意な海上活動能力を買われ、九州各地に進出。これは、ヤマト王権の北部九州兵站基地化推進のための移住命令であり、勢力拡大のための積極的な進出ではなかったものと思われます。
右から、イレズミのあるお面(手前)、猿面(奥)、人物埴輪(右手)、人物埴輪頭部。
左には、鐙、弓付属金具、鉸具、轡、挂甲小札。
手前右から、銅地銀張耳環、水晶製切子玉、銅地金張耳環。
奥の手前は、金製垂飾付耳飾、奥右は、銅地金張耳環、奥左は銅地銀張耳環。
「海外交流の証し 金製垂飾付耳飾」
立山山古墳群8号墳から出土した垂れ飾りがつく純金に近い金製の耳飾りで、細金細工の技法を用いて中間飾りや垂下飾り部分の表面に非常に細かい金粒を吹き付けた見事な加工が見られ、6連の鎖部分を二重にするなど複雑ながらも精巧な作りとなっています。
この耳飾りは朝鮮半島南部周辺で製作され、日本に持ち込まれたものと考えれています。
壺に器台がたくさんありますね~
こちらは、「頭を欠く石人」。
岩戸山古墳から出土したと伝えられる小型の石人で、頭部を欠損していますが、ほぼ全身が残っており、両手を広げる表現がなされ、下半部は大きく裾が広がってスカート状の着衣をしているような表現がなされています。国指定重要文化財。
こちらも、「頭を欠く石人」。
岩戸山古墳から出土したと伝えられる小型の石人で、頭部を欠損、ほぼ全身が残っていて、僅かに膨らみのある腹部に両手を中央付近で当てながら座っている様子がみられ、下半部はスカート状の着衣をしているような表現がなされています。
左手には指の表現が見え、優しく腹部を撫でているかのようです。恐らく赤子の誕生を待ち望んでいるのでしょう。国指定重要文化財。
続いて、「正座した裸形の石人」。
岩戸山古墳の別区から出土した小型の石人で、頭部から胸部を欠損していますが、首から下はほぼ全身が残っており、正座し両手を膝上にきちんと置いたスタイルで座っている様子が見られます。こちらも国指定重要文化財。
「横座りした石人」
岩戸山古墳から出土したと伝えられる小型の石人で、腰部分から足部分にかけて残っている石人で、右足を膝下から曲げ、欠損していましが左足を外方に投げ出すような表現が見えます。あぐらをかいて座っているものと思われます。国指定重要文化財。
右から、「石人頭部」「上半身の石人」「石人頭部」。
石人の展示スペースを今一度…
本当にたくさんの出土品があるんですね!スゴい!
「その4」に続く。
岩戸山古墳・八女市岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷
福岡県八女市吉田1562-1
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