三毒シリーズ1 『鶏と蛇と豚の三毒を克服するために』 | 善住寺☆コウジュンのポジティブログ☆ 『寺(うち)においでよ』

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ある日のことです。

 

娘たちが池の周りに集まってしゃがんで何かをやっていました。

 

何をしているのかなと見ていると、カマキリに水をかけているのです。

 

生き物をいじめたらダメだと注意しようと思ったところ、逆にカマキリを助けているんだといいます。

 

三人は「カマキリ救出作戦」を行っているということでした。

 

カマキリに水を掛けると、なんとお尻のところからするする~っと一本の長いハリガネムシが出てくるではありませんか。

 

なるほど、この寄生虫を体の外に出してあげようとしていたのかと納得しました。

 

 

調べると、ハリガネムシは成長するとカマキリをコントロールして水辺へ向かい、入水自殺させて体外へ出て生殖行動を行うのだそうです。

 

水を掛けるとハリガネムシが出てくるのは、水辺に着いたと勘違いしているのかもしれませんね。

 

 

小4の三女によると、どのカマキリにハリガネムシが入っているかわかると言います。

 

 このカマキリは狂暴だからハリガネムシが入ってる。

このカマキリは穏やかだから入っていない。
 

 

それが本当かどうかわかりません。

 

多分根拠のないことなのかもしれませんが、どこか信じたくさせるような三女の観察眼です。

 

 

こうやって数匹のカマキリをハリガネムシの支配から救ってあげている娘たちの姿を見て、とても微笑ましくなりました。

 

 

 

 

 

さて、そこで思い出したのが仏教の基本となる「三毒の滅尽」です。

 

実は同じように人間も眼に見えない三つの魔物に寄生され、行動を支配されているというのです。

 

その支配から自由になることが仏教の目的となります。

 

 

【三毒とは】

一つ目は「ラーガ(貪)」という名の鶏。

 

 欲しい欲しい足りない足りないと貪り続ける愛に餓えたこの「鶏」に精神を支配されると、欲しがる思いは止むことなく、足ることを知りません。

 

 

二つ目は「ドヴェーシャ(瞋)」という名の蛇。

 

 許してなるものかと怒る傷の癒えることがないこの「蛇」に心を支配されると、憎しみ、恨みは絶えることなく、すぐカッとなり、寛容になることができません。

 

 

三つ目は「モーハ(痴)」という名の豚。

 

 一方的な見方、偏見に満足し、本質に目をそむけるこの「豚」に心を支配されると、今の自分さえ良ければそれで良く、自他の間にある格差、不平等を正すことが本当に自分の苦を抜くことになるのだということがわかりません。

 

 

 これらの魔物が人間の中にいて、毒されてしまうがために悪い行いが無意識のうちに正当化されてしまうようです。

 

それが仏教の共通理解であり、三毒は「諸悪の根源」なのです。

 

 

 

 

そして三毒を中和するための三薬も示されています。

 

ラーガ(貪)にはダーナ(布施)を。

 

ドヴェーシャ(瞋)にはマイトリー(慈愛)を。

 

モーハ(痴)にはプラジュニャー(智慧)を。

 

カマキリに水を注ぐがごとく、その三つを注いでいくのです。

 

 

【三薬とは】

ダーナ(布施)01

 「ダーナ」とは与える行為で、お金や物を与えるだけでなく、笑顔や優しい言葉で敬意をもって他者に接し、重い物を持ち席を譲り、自らの持つ物や能力を惜しみなく使うことです。

 

 もらってももらっても満たされなかった心が、与えることで自他の分かち合いを知り、個の枠を壊していくでしょう。

 

 

マイトリー(慈愛)02

 「マイトリー」とは思いやりの心で、生きとし生けるものに対する深い友情の心をもつこと、あらゆる人々の幸せを願うことです。

 

 お釈迦様はおっしゃっています。

 

「慈の瞑想を深めなさい。慈の瞑想を深めればどんな瞋恚も消えてしまうからです。」

 

 私が幸せでありますように。

私の親しい人が幸せてありますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

私の嫌いな人が幸せでありますように。

 

 怒り許せなかった思いが、慈しみを拡大していくうちに小さなものに感じていくでしょう。

 

 

プラジュニャー(智慧)03

 「プラジュニャー」とは智慧(真理の洞察)のことであり、欠落を意味する空という性質を理解することで世界はどうやって成り立っているのかを見通す力です。

 

 お釈迦様は「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」とおっしゃいました。

 

 我々は一人だけでは存在することができず、欠落しているが故に縁によって相互繋がり合い存在として姿を現わすことができます。

 

 そうイメージし続けることで、「今自分だけの状況がよくても周りが悪いとやがて自分に影響が与えられ、周りが良くても自分の状況が悪いと周りに影響を与えてしまう」ということが理解できてくるでしょう。

 

 

 悪い人などいません。

 

悪い行動に支配された人がいるのです。

 

それを信じることは、その人の立ち直る力を支えます。

 

表層ではなく本質を見通す洞察力がプラジュナーです。

 

 

 

 さ~、貪瞋痴の支配からの脱却を宣言するお経文を常に唱え、意識し続けていきましょう。

 

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

 

皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)

 

従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)

 

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

 

 

 私が昔より造らされてきた諸々の悪業は、

 

すべてが遠い過去より貪瞋痴に

 

身体と口と心を支配されることで生みだされました。

 

すべてを私は今、ことごとく悔い改めていきます。

 

(所造ー造られる ⇔ 能造ー造る、所生ー生み出される ⇔ 能生ー生み出す


 
 

 貪瞋痴にあやつられないで生きていきたいのです。

 

ラーガの支配を克服して、他者から幸せを奪いません。

 

ドヴェーシャの支配を克服して、他者を責めません。

 

モーハの支配を克服して、他者に価値観を押し付けません。


 まずはその3つをモットーとすることが、目覚めへの一歩です。

 

 

「カマキリの洗脳に失敗し、干からびた寄生虫」というニュースも見つかりましたので、それに勇気づけられながら進みましょう。