つれづれなる日々

つれづれなる日々

半分は学校の先生、半分はショウリンジャー
ときどきふらふら風まかせ。

ほとんど四面楚歌で徒手空拳、いつでもどこでもひとりきり。

Amebaでブログを始めよう!

天津神明宮のあとに寄ったのは、太東岬灯台。

 

 

北側には九十九里浜、南側は大原方面が一望できます。

 

 

ここに寄った目的は、旧海軍が戦時中に設置した電探(対空レーダー)跡。
以前に寄った勝浦の官軍塚は、実用化の実験施設でしたが、

こちらは実戦用。本土空襲のB29の本土接近を探知していた場所になります。

この真下に、電探の操作室があったんですが、

崎の浸食のために、だいぶ前に海中に崩落したとのこと。
同じようなことは、北海道の戦跡にもあったと聞いていますが、
仕方ないとはいえ、何らかの保存策が必要だったのかも知れません。

 

近くの茂み 写真では樹木が植わっているあたりになりますが、

当然、米軍には察知されるので、戦闘機の攻撃対象になっていて、

対抗策として対空機銃(おそらく、25mm連装or3連装機銃)が設置された跡になります。

国道から約1.5km入る道が、車同士のすれ違いも難しい道で、

アプローチも難しい場所になりますが、原型をとどめているという意味では、

貴重な歴史的遺産になると思います。
観光客も多かったので、ぜひ道の整備はして欲しいところです。

 

閑話休題
太平洋側を望むと、1隻の巡視船。

船型からして、かとり型巡視船。てっきり銚子配属のPM51かとりかと思ったんですが、
トリミングしてみたら…

同型船の、鹿島配属のPM55ひたちでした。

 

先週の話ですみません。
梅雨明けと同時に、仕事がちょっとだけ楽になったんで、
房総半島を反時計回りして、南房総の神社を巡ってきました。

館山を越えて、まず行ったのは洲崎神社。

 

 

140段の階段を上り、西へ視線を巡らせると、東京湾~相模灘越しに
富士山が望めるんですが、夏場ってことで難しかったです。
空気の澄む冬場がベストなんでしょう。その頃に再訪ですね。

 

続いて、安房国一ノ宮の安房神社へ。

金運の御利益で、経営者もよく参拝されるとのこと。

 

上総国一ノ宮の玉前神社、下総国一ノ宮の香取神宮は、すでに参拝していますので、
千葉県にある一ノ宮には、全て参拝できたことになります。

 

次に向かったのは、房総半島の南端、野島崎にある

厳島神社野島崎弁財天。

名工と呼ばれた石工が、七福神を彫って奉納しているんですが、

弁財天だけが社殿のなかへ。それが「~弁財天」の由来です。
また、社殿そばの祠には…。

 

 

良い時間になったんで、最近よくお世話になる鴨川館で

昼食と日帰り温泉を。

 

 

 

昼食~温泉のあとは、天津小湊の天津神明宮へ。

源頼朝や日蓮上人にゆかりのある神社です。

 

 

 

そして帰路へ。もう1ヵ所寄ったところは別項で。

 

 

県民の日で大手で休暇を貰えた(こんなことは初めて…)ので、
百里基地へ8ヶ月ぶりに撮影行へ。

3月に一度行ってるんですが、その日は年度末で飛行自体がなく、
コロナ禍で成田へもご無沙汰状態。
余りにも間隔が開いたから、どうなんだろうか?

茨城空港のターミナルビルで朝ご飯を仕込んで、
ここのところベースにしている、茨城空港公園へ。
ところが格納庫が開かず、飛んだのは救難隊と松島から飛来のF2Bのみ。

 

今日も空振りかな…とおもったら、格納庫が開き、

昼近くになって、F2が7機とT4が1機、合計8機が一斉に離陸。
撮影したんだけど、気温が上がってランウェイが予想以上の陽炎。
やっと見ることができる画は、たった2枚のみ(かなり妥協して…)
撮影ポイントを開拓しなきゃならないな。

 

まぁひさびさに爆音が聞けたから、これで良しとしなきゃならないな。
 

東金市と九十九里町の境に近づくと、最大の遺構になる
荒生(あらおい)駅跡にたどり着きます。
一目見ると、林(地元の人間だと、「やま」と呼ぶこともあります)ですが、
近づいてみると、ホーム跡のコンクリートが残っています。

 

逆側から見ると、駅があった様子が感じられると思います。
整備すると、かなりの遺産になるとは思うのですが…。

 

九十九里町に入ると、路線跡は一転して、「きどうみち」という遊歩道として整備されています。
開業当時は「九十九里軌道」という社名で、「キドー」という愛称で親しまれていたそうです。

 

 

荒生駅の次、九十九里町では最初の駅になる、西駅跡。
交換設備はない駅ですが、駅があった名残を生かすためか、
ここは遊歩道が広くなっています。

 

しばらく進むと、片貝(かたかい)小学校のあたりに看板が。

このあたりに、「学校前」駅が設置されていたようです。
小学生が利用するとは考えにくいですが、

小学校のそばってことでの駅名だったのかも知れません。

 

九十九里町の町営ガスのガスタンクが見えると、遊歩道の終点で、
残り1kmは町道になっています。
ガスタンクの脇の小川からは、天然ガスが湧出して泡になっています。
実は東金市側の路線跡は、

地籍上は地元の工業用ガスの配給会社の土地になっていて、

ガスのパイプラインが埋設されています。

 

 

片貝海岸への県道を横切る場所に、「小湊鉄道用(地)」の境界標がありました。
戦中の鉄道会社の整理の際、資本上は九十九里鉄道が親会社、
小湊鉄道は子会社の扱いになっています。
両者のバスの塗色が同じなのは、それが理由ですし、
九十九里鉄道の現本社に、小湊バスの営業所が併設され、

観光バス事業は、両者の合同事業になっています。

 

ちなみにこの県道に、唯一の踏切があったんですが、

戦後まもなくは、現在の国民宿舎の場所に米軍の演習場があり、
そこへ行く米軍のトラックと事故がたびたびあったそう。
ただ、壊れたのは簡易鋼体化の九十九里鉄道の車両だったようですが…。

 

 

 

そこから路地を進むと、終点(?)の片貝駅に到着します。
営業時は新潟にも同じ片貝駅があるため、

「上総片貝駅」となっていました。
いまは九十九里鉄道のバスの折り返し場、バス置場になっています。
そこから考えると、駅舎と車庫、整備工場、
片運転台だったための転車台もあり、かなりの規模の駅だったようです。

 

 

ここまで、東金駅から写真を撮りつつつ、自転車で約2時間。
帰りは40分ほどのプチトリップでした。

 

 

 

 

 

 

自分の地元には、70年ほど前に廃線になった「九十九里鉄道」という路線があります。
(会社自体は、バス会社で現存しています)
先日、その廃線跡を自転車を使って巡ってみました。

国鉄との接続駅であった、現在のJR東金駅。
現在の東口広場に、九十九里鉄道の駅舎、構内施設がありました。
(自転車置場が駅というサイトや文献もありますが、
 そちらは東金駅の旧3番線跡で、歩道、タクシー乗り場の置屋が
 九十九里鉄道の駅舎跡になります。

 

 

ちなみに廃線後、京成電鉄が車両を買い取って、当時経営していた

谷津遊園の遊覧鉄道に転用…と言う話がありましたが、立ち消えになり、
10年以上放置状態の上で解体、地中に埋められています。
じつは自分の通学していた小学校、東口の向かいにあるイオン、公園の敷地にありました。
自分が小学校に入学する頃には、駅舎もなく草原(一説には沼地)になっていました。

市街地は、高度経済成長の末期に大規模な区画整理事業があって、
路線跡が市道に転用された形跡はありますが、確証がありません。

国道(廃線後に市街地を迂回する形に変わってます)を越えると、
路線跡を利用して、下水道と雨水の放水路に代わっています。
約4kmほどの直線の放水路を行くと、真亀川に突き当たります。
河川改修もあり、川を渡った橋の跡は残されていません。
 

 

迂回して川を越えると、廃線跡探訪には必ず取り上げられる

コンクリート製の橋台の遺構に行きます。
当時の写真だと、真亀川の支流か用水路があったようですが、
農地整備の関係で小川がなくなり、水田の真ん中に
1mほど盛り上がった路線跡と一緒にあります。

 

 

 

橋台あとから500mほど進むと、路線跡は市道に転用されています。
若干は広がっているとは思いますが、この道を
マイクロバス程度の大きさのディーゼルカーが、最大3両連なって、
10kmほどの路線を行き来していました。

 

 

東金駅から2駅目の家徳(かとく)駅跡。
(1駅目の堀上(ほりあげ)は、雨水の排水路の整備の関係で、
 全て取り壊され、遺構もありません)

ここだけ、交換設備があった(ただし、戦後は全線が1区間になり使用されていない)名残で、
市道の両脇が広くなっています。
南北に横切る市道がありますが、列車の長さを考えると、
南北の市道は、路線廃止後に整備したのかもしれません。

 

 

しばらく行くと、住宅地や水田の中に路線跡が市道や畔道で続いています。
ほぼ直線で、大正末期の路線建設時は、水田をずっと真っ直ぐひたすらに作ったんだと考えられます。

 

 

 

~続く~