旧東海道神奈川宿ウォーク_その3。(慶運寺、浄瀧寺、宗興寺、権現山など) | かながわ検定横浜ライセンス1級に合格したのでブログ続けてみました。

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 横浜のご当地検定である「かながわ検定横浜ライセンス」は2017年3月の試験を最後に終了してしまいましたが、その名前を忘れない様にブログのタイトルに付けました。
    そして、いつの日か「かながわ検定横浜ライセンス」が復活してくれたらと思います。

 

前回に引き続き、旧東海道神奈川宿ウォークのその3です。神奈川新町駅近くの神奈川通東公園から、

神奈川宿歴史の道を逆流し西へ西へと進んできました。全部で12か所あるキーワードポイントも、

A~Eの5か所を通過、残りは7か所となり、旧東海道神奈川宿ウォークは中盤戦に入って行きます。

 

 前回の最後に訪れた成仏寺から、西へ進むと滝の川に到着。滝の川に沿って北へ進むと慶運寺です。

 慶運寺は浦島伝説にちなみ浦島寺と呼ばれています・・・ ↑↓ また、フランス領事館跡でもあります。

 

 

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◎慶運寺

 慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、『東国紀行』の天文十四年(1544)三月三日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへ(小机)の城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまへたり」と書かれている。開港当初はフランス領事館に使われた。また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。

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    そして、こちらが6番目のキーワードポイントで・・・ ↓ わが町かながわ50選にも選ばれています。

    

       滝の川を南へと進むと、「滝ノ橋と本陣跡」がありました・・・ ↓

       

 

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◎滝ノ橋と本陣跡

 上の図は「金川砂子」に描かれた、江戸後期の神奈川宿の風景である。現在と同じ場所にあった滝ノ橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿である。滝ノ橋のすぐ脇には高札場が見える。高札場は幕府の法度や掟を庶民に徹底させるための重要な施設である。この高札場は、現在の地区センターに復元されている。

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          滝の川を離れて少し西へ行くと、神奈川の大井戸がありました・・・ ↓ 

          

 

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◎神奈川の大井戸(横浜市地域史跡)

 この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられ、また、開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることができるといわれ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた。

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神奈川の大井戸から少し北へ、戻る感じになりますが・・・ ↓ 滝の川の川沿いにあるのが浄瀧寺です。

 

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◎浄瀧寺

 浄瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(1260)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。聖人が『立正安国論』を著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。また、開港当時はイギリス領事館に充てられた。

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 という訳で、イギリス領事館跡の石碑と、7番目のキーワードポイントです・・・ ↓

 

    大井戸の方に戻って来ると、宗興寺がありました・・・ ↓ 8番目のキーワードポイントです。

    

 

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◎宗興寺とヘボン博士

 曹洞宗宗興寺は、上の『神奈川駅中図会』では権現山の麓に描かれている。開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。

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       宗興寺の境内にはヘボン博士施療所の石碑があります・・・ ↓ ヘボン博士のレリーフ付き。

       

 

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◎宗興寺

 1859(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教医D・B・シモンズが来日、当、宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜市立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと、1861(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。ヘボンのレリーフは幸ケ谷在住の斉藤由蔵氏の善意で作られたものである。
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          宗興寺からさらに西へ、幸ヶ谷公園にやって来ました・・・ ↓

          

 

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◎ 権現山

 かつてこのあたりは権現山と呼ばれ、本覚寺の高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山であった。戦国時代、当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人は、北条早雲に味方して謀反を起こし、この山上に砦を築いてたてこもった。合戦は上杉方の勝利に終わったが、その後、上杉氏の力が弱まり北条氏による関東支配が始まった。幕末から、明治にかけて、お台場や鉄道用地の埋め立て、開削などのために山は削られ、現在のように低くなった。

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幸ヶ谷公園からは線路を挟んで本覚寺が見えますが、かつては尾根伝いに繋がっていました。

鉄道用地のため開削され、開削で取った土砂で海を埋め立て、横浜駅までの鉄道用地を造りました。

キーワードポイントは8番目まで来て後半戦に突入・・・ ↓ 次回は本覚寺の方へ向かいます、つづく。

 

旧東海道神奈川宿ウォーク〓fab44〓その3

 

 

なお、今回歩いたのはコースマップの中央部、緑色の線の部分です・・・ ↓