昨日は、涼しいうちにと、墓掃除のため早朝6時前に神社へ向かいました。
当社の長い正参道石段(第一石段)を12段昇って、右の細い道を折れると、当家累代の神道墓所に至ります。
神道募である奥都城(おくつき)の正面にあるのは家族合祀墓で、昭和43年に父が36歳で急逝した際に建立したもので、私の両親と祖父母が眠っています。
当家の墓所には、明治以降の比較的新しい墓も数基あるのですが、藩政時代(江戸時代)の墓も何基か現存し、それ以前のものは土壇で、ブロック塀の後方にその痕跡があります。
この神道墓は、田近對馬守正容(まさひろ)の墓で、「文政十二年(1829)二月十日卯之下刻 宣徳霊神故對馬守正容墓」とあります。
この「對馬守(つしまのかみ)」などの受領名(ずりょうめい)が刻まれているのは、加賀藩では延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の神主は非公式ながら官職を名乗ることを許され、更に京都の吉田家を通して許しを受けたからです。
こちらは、安政9年(1859)9月9日卒の田近和泉守(いずみのかみ)正次の墓です。
一方、こちらは奥が五輪塔(ごりんとう)と手前が赤戸室石(あかとむろいし)の墓ですが、両方とも文字が不鮮明でよく解りません。
赤戸室のこの墓をよ~く見ると、「正徳五年(1715)九月没 田近主水(もんど)」と読めます。
祖父から聞いた話では、この墓石は、神主が手に持つ笏(しゃく)の形にして造られたそうです。
笏(しゃく)はアニメの、おじゃる丸も持ってますよね!。
この墓は、文字が欠落(けつらく)して全く読めませんが、おそらく宝暦7年(1757)卒の田近壱岐守(いきのかみ)正房(まさふさ)のものだと思われます。
さて、社家(しゃけ)である当家には、『神道裁許状(しんとうさいきょじょう)』が代々伝わっており、これは、京都の神道本所・吉田家(吉田神社)から授けられた江戸時代の神主の免許状です。
なお、『神道裁許状』についてくわしく知りたい方は、私の過去のブログ・神主の免許状今・昔をご覧ください。
寛文10年(1669)第9代・田近出雲掾(いづものじょう)
安永6年(1709)第11代・田近對馬進(つしまのじょう)正容
享保21年(1735)第12代・田近壱岐守(いきのかみ)正房
延享2年(1742)第13代・田近和泉守(いずものかみ)正次
文化12年(1815)第14代・田近和泉(いずみ)正治
天保6年(1835)第15代・田近日向(ひゅうが)正総
嘉永5年(1852)第16代田近信濃(しなの)正則〔※のち他家へ養子〕
第10代・田近和泉守正治の裁許之状を書き下してみますね…。
加州(加賀國)河北郡田近郷八幡宮之祠官「田近和泉守 藤原正治」、先例に任(まかせて)、神事参勤之時、風折烏帽子(かざおれえぼし)・狩衣(かりぎぬ)を着るべきは、
神道裁許之状件(くだん)の如し。
元禄十四(1701)辛巳(かのとみ)年十一月七日
神祇官領長上正三位侍従卜部朝臣兼敬〔朱印〕
(じんぎかんれいちょうじょうしょうさんみじじゅううらべあそんかねゆき)
『裁許之状』には、「恒例の神事に参勤する時は、風折烏帽子(かざおれえぼし)に、装束の狩衣(かりぎぬ)を着て神様にご奉仕することを許しますよ」と書かれています。
そして、最後に墓所に隣接する歴代のペットの墓もお掃除しました。
石の配されたところがそうで、奥から、白(シロ)、桃子(モモコ)、左の石が李(スモモ)、真ん中の首輪とリードが置かれたのは進之助(シンノスケ)、手前が練(レン)で、右がセキセイインコのピーちゃんです。
墓掃除は、2時間で終えたのですが、汗びっしょりになりました。