東京の山手線内の公立学校だと、小学校低学年から中学受験塾の低学年クラスに入り、そのまま中学受験クラスへ進み、志望の私立中学に入学すると有名中学御用達の塾に通い、大学受験まで塾通いして、難関大学へ進学するという子どもが珍しくありません。
ずーっと勉強をしていて、それが当たり前になっています。
おそらく、そうした子どもは疑問を持たないのかもしれません。
ドラマ『二月の勝者』で、「偏差値50台の学校を受ける奴はゴミだ!」という台詞を子どもが言っていましたが、勉強が第一という価値観の子には、あってもおかしくないエピソードでした。
ドラマにもあったように、父親が過剰に受験に介入してくるケースはまま見られます。
また、母親が夫から見下されないように、結果を出すことにこだわって子どもの勉強に入れ込むケースもあります。
子どもは親の言葉をコピーしてしまうので、先のような言葉が出たのでしょう。
勉強だけでなく、スポーツでも芸術でも、子どもに入れ込むことはありますが、特に勉強で弊害が目立つのはなぜでしょうか。
それは、スポーツや芸術はみんながやるものではないのに対して、勉強はほぼ全員が参加しているという点が違うからだと思います。
また、試合やコンクールよりも頻繁に行われるテストにより、結果が確かめやすいということもあります。
勉強ができることは、悪いことどころか良いことです。
しかし、勉強ができないことを見下すようになるのは困ります。
大学までは、勉強の成績で自己評価できても、社会人になれば違う尺度で測られます。
その時になって、勉強しかできないと気づいても遅いのです。
勉強のほかに、趣味や特技を一つでも持っておくと、社会がひろがります。
勉強以外に同年代の子と触れ合う場ができ、さらに家庭と学校以外の大人とのつながりもできます。
また、試合や発表会などで成果を披露する機会ができ、大勢の前で自分を見せるという経験ができます。
このように、色々と学校ではできない経験ができるのです。
これまで、習い事のやりすぎは逆効果ですよと、しばしば書いてきました。
でも、まったくやらないのも、そうした経験をできないので、もったいないと思うのです。
企業のリクルーターが望む人材は、独創性やリーダーシップもありますが、グループワークができる人と答える人は多いです。
それは、単に協調性というよりも、多様な人々に交じっても自分を出しつつ、他人の価値観を否定せずに、受け止めて検討できる人です。
自分で勉強しているだけでは、なかなかそうした素養は身につかいにくいでしょう。
「勉強しかできない」ではなく、「勉強もできる」と言える子に育てたいものです。(羊)