雑踏のなかを独り歩くのが好きだ。大勢で歩くのでもなくふたりで歩くのでもなく、独りで歩く。
かといって、ぼくがふだん住んでいる場所のように、外を歩いてもめったに人と出会うことがないようなところで、ひとり歩くのは好きではない。だいいち、それが夜の闇のなかともなれば、何が出てくるかわからず、独りでは怖くて歩けたものではない。何よりも雑踏、人ごみというのがよいのである。
そしてそのときぼくは、決まって何かを考えながら歩いている。その何かの基となる対象は、そこで目に映るものであってもよいし、まったくちがうどこかの誰かのことでもよい。とにもかくにも、「独り」と「雑踏」という絶対条件の環境で「歩く」のである。逆に誰かと会話をしながらでは、そのたのしみがなくなってしまうし、独りであっても、周りが静かすぎるとたのしみは半減してしまう。
と、なんだかんだ好き勝手を言っているが、それが日常となると、たぶん幾日もせぬうちに嫌になってしまうのだろうことは、これまでの体験から容易に想像がつく。
要するに非日常が珍しいだけなのである。珍しい行いが、あるいっときたのしいだけなのである。本当に好ましいのがどちらであるか、それは、言わずもがなというものだろう。
都会は、便利さと快楽の塊だ。とはいえそれは、人生の豊かさとイコールではない。都会と田舎、どちらに豊かな生活があるかを多くの都会人は知っている。だから多くの都会生活者がわざわざ田舎へと出向き、都会の雑踏に疲れた心身を癒す。それが現代人というものである。
今さらではあるが、その当たり前の逆をいくぼくは、しかもあえて意識的に逆目を張っている節もあるぼくは、やはり変わり者なのだろうと思う。
結局のところ、たくさんの人に紛れこんだ自分を俯瞰しているのがおもしろいのだろう。いや、もっとシンプルに、たくさんの人に紛れこむという行為そのものがたのしいのかもしれない。
きのう、人っ子ひとりいない山の道を独り歩きながら、そんなことを考えていた。なんのかんのと言いながら、そこがマイスイートホームにはちがいない。