竹田の子守唄 ― 赤い鳥


先日、私も執筆者の一人として携わっている新雑誌『イチゼロ』の編集者会議の中で、フォークソング本来の土着志向についての話を“Mystery Tramp”こと中谷氏から伺う機会があったが、その話を聞くや否や私はすぐに“赤い鳥”『竹田の子守唄』の事が頭に浮かんだ。元々門外漢という事もあり、私には系統だった民俗学の知識が無く、せっかく話を膨らませる好機であったにも関わらず、そのような平凡な連想しか出来なかった事は自ら恥じるべきなのであろう。己の不勉強を省みて今後の課題としようと思う。

しかし、一般に左翼は、例え『インターナショナル』の歌詞をはっきりとは覚えていなくても、『竹田の子守唄』ならば皆澱みなく歌えるものだ。それは恐らく「フォークソングとして定番のナンバーだから」「元々被差別部落で唄われた歌であったから」というだけの理由ではない。商業主義に流れる事を良しとしなかったフォーク歌手と同じく、左翼も本来的には土着的な文化を志向する存在であるのではないか。広義の民俗概念分析と理解を、右翼・保守派の唱える中央集権的なパトリオティズムや大衆的ナショナリズムと対置する形で据えてみたらどうだろう。これは現状の不毛な愛国論議を建設的な論議に高める手立てとなり得る、などと今もうっすらと考えている。些か常識的に過ぎる知識かもしれないが、『竹田の子守唄』は熊本県の代表的民謡『五木の子守唄』と同じく、元々一般的なイメージの子守唄―赤子を寝かしつけるための歌ではない。子守をする少女達が自らの境遇を歌詞に託して唄った歌である。言うまでもなく、彼女達を巡る境遇は決して微笑ましい話などではあり得ず、貧しさの為に教育を受けられなかった幼い守り子が赤子を背負い、あやしている姿には、細井和喜蔵『女工哀史』に通じる暗さがある。但しその情景は、表現はやはり適切でないかもしれないが、現代的価値観から下される悲哀への処方箋とは別に、善悪の概念を抜きにして、確かに日本人の“心の原風景”ではあるのだろう。私がかつて批判した深沢作品のように、現実をありのままに捉えて事足れリとし、何処かで人間存在に深い温かい眼差しを向ける事を許容しない極端な視点は好まないが、民俗学を通して人々の“心の原風景”を探る作業は今日では極めて重要な意義を持つ筈である。

余談だが、私の父は宮崎県出身であり、神話や個人的な思い出をも交えつつ、『稗つき節』『刈干切唄』、隣県の『五木の子守唄』等ポピュラーな民謡についてはよく唄って聴かせてくれたものだ。私自身は未だ九州に行った事がないが、果たして血の為せる業であろうか、自分を那須大八と鶴富姫の意志を受け継ぐ末裔と想像してみたり、九州の土着的な文化には特に郷愁の念に駆られてしまうのが大変不思議な現象ではある。

稗つき節 ― 宮崎県民謡


五木の子守唄 ― 熊本県民謡


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今日は日本、ひいては世界の平和を考える上で重要な日である。胸に抱いている想いは誰もがそれぞれの形で有る事だろう。私の場合、伝統的な左翼右翼は言うに及ばず、社民、アナキストや保守派に至るまで友人が多い為、ミクシィやツイッター、直接の電話やメールを通して、意見の対立や葛藤の情報がほぼリアルタイムで耳に入ってくる。

今年も靖国神社では、御存知“反天連”と“在特会”“チャンネル桜”が一騒動起こしていたようだ。
二年前に反天連系のデモ隊と街宣右翼の騒ぎを、友人の大石規雄氏と共に呆れながら観ていた覚えがあるが、私からすれば、参拝客の邪魔にならないように配慮しながら、暑い中黙々とウイグルの地の人権弾圧を告発するビラを懸命に配っていたウイグル支援者の方々の方が、反天連や在特会よりずっと左翼的で右翼的であると思ったりもする。

ふと思い出したのだが、私が高校生の時に書いた最初の政治的文章は、愛国心と国歌国旗についての論考だった。ありきたりなテーマだが、よくよく考えれば保守の勢いが目覚しい昨今、限りなく“新しい”話題でもあるだろう。ただ、幾ら勢いはあるとしても、保守派の主張する愛国の概念定義やその対象は今日においてすら必ずしも一律ではない。その中でも、誤解を恐れずに言えば、私なりの定義は保守派のどんな人間よりも既に強固な形で確立しているつもりであるし、そもそも「左翼イコール反日」というステレオタイプで無責任な捉え方をされても困ってしまう。しかし、その一方で、確かに私達左翼が「愛国」とみだりに口に出す事を常に憚るのは事実で、特に私がまだ前線にいた高校生当時とすれば、私達にとっては愛国を語る事は同時に中東との関係が悪化していくばかりのアメリカを強く意識せざるを得なく、感情論に流れた程度の低い愛国論議が、如何に問題の本質から日本人の目を背けさせ、お粗末な外交論の評価に終始させるものであったかは容易に想像がついた事だからだ。
若き日の私が綴った文章は大まかに、国旗問題において、保守派の旗一枚に身と思考を委ねるかのような観念論的日の丸崇拝と、左翼側の日の丸への反動的物神崇拝に過ぎぬ現状追認を手厳しく批判し、国歌問題において、明白な強制性を以て不起立の教員をパージしようとした石原都知事、都教委と、大同団結の理想を現実のものにするべく大掛かりな反米闘争を展開しなければならなかった時期に“君が代不起立闘争”なる珍奇な運動を進めようとした中核派の両サイドに遺憾の意を表明したものであった。
左翼とは特定のイデオロギーや信仰に基づく立場ではなく、むしろ他者の信仰を尊重しつつ、同時に一つの現象として“信仰”を抽出しつつ客観視して科学的に分析する立場を採らなければならない、というのが私の予てからの主張である。
私と同じく没イデオロギー的なアプローチを旨とする左翼本流からすれば、やはり反天連は粗暴さを除いて左翼傍流としての価値すらも体現化出来ていないと断じる他ないだろう。例えば今日の騒動においても、反天連が靖国神社を「ナショナリズムの砦」と見なすのであれば、英霊の追悼施設であるという本来の性格に政治色を与えているのは資本主義的経済的な利害である、という私の分析と果たしてどちらが穿った見方なのだろうか。そこに既に表面化してもいるナショナリズムの根本的な錯誤が在る、と思うのだが。保守派にしても、よもや紅衛兵でもあるまい。時代錯誤な「愛国無罪」は通らないし、恥知らずにも「愛国」を叫び自らの言説に権威を与えるような卑怯なやり方は、私の一番好まないところだ。双方に猛省を促したいというのが本音である。

ところで、よく人から指摘されるのだが、私はどうも政治的問題を個人的問題に収束させてしまう傾向があるらしい。事実、「反戦」の可能性を突き詰めれば結局は個別的内心の問題に行き着くと思っている。何はともあれ一も二も無く生涯を賭けて仁義を貫く事。私の中にある想いとは、仁義に基づいて人間関係を構築していくという“所感”だ。皆が人間存在を巡る自分自身の想いを見つめ、かかる思索を続けていく事が出来たなら、世界は例え緩やかな形ででも善き変貌を遂げていくだろう。その事を願わずにはいられない。

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“Sophisticated Lady”― Thelonious Monk


“Sophisticated Lady”― Duke Ellington


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人間とは主観の生き物であればこそ、永遠に続く業とでも言うべきか、等しくエゴイズムの縛りからは逃れられない。エゴイズムが無意識に狂気と暴力性を帯びて他者を傷つけていく事はままある事で、人が固有の存在の大きさから貝には変身出来ない以上、そんな場合でも「原理原則に従う他に為す術もなかった」と無理矢理思考を停止させた後に自らを正当化していくしかなく、その手の生の苦悩であれば、日常の中に幾らでも溢れかえっているだろう。例えどんな人間であれ、真摯な、壮絶な自己解体の末には、陰鬱さを宿した痩せこけたうつろな自己を映す筈である。

岡崎京子の漫画の中で、こんな台詞がある。
「自分が他人に何か出来るなんて思う人間はバチがあたるのよ。思い上がり。身のほど知らず。」
嫌でも自分自身の姿を見つめざるを得ない言葉である。エゴイズムは何も国家の専売特許ではない。今日日国益云々の欺瞞に囚われている者も多いだろうが、そもそも個人のエゴイズムの積み重ねと変質の果てに、大国の総体的なエゴイズムが「国益」という名の甘い樹液の副産物として生じるだけなのだ。勿論副産物を許せぬ者にとっては闘争の必要も不可避的に生まれる。あくまでもエゴイズムの本質は承知の上で、エゴイズムの形式を意識的に変質させ、仮借なき力を有した大国のエゴイズムの発露に合目的的に対比させるのが、いつだって私なり同志達の志向であり、また本意であった。そう、何もかも重々承知の事だったのだ。

モンクのピアノは、経験を通して全てを見透かしているかのように聴こえる。
十字架を背負い、死の誘惑に駆られ、涙を流し尽くしてしまったら、後は他者の流す涙に憤るエゴイズムが待っているだろう、と。
「私は別に死んだっていいんだよ。今までに散々好き勝手やってきたからね」
「でも、君だけはしっかり前を向いて、誠実に自分の人生と向き合わなければダメだ」

このように美しい説教師も、その純度を高めれば高めるほどに偽善的になる。
私とて悪党たる者、己の邪を隠しはすまいよ。願わくば、「意志によって世界を規定する」いびつで顛倒した人間、私一人が永遠の悪党として、憎悪を一定引き受けながらも、坦々と涙を拭く言説を貫くエゴイストとしての役目を負い続けたいものだ。

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“Sophisticated Lady”(Duke Ellington)

They say into your early life romance came
And in this heart of yours burnt a flame
A flame that flickered one day and died away
Then, with disillusion deep in your eyes
You learned that fools in love soon grow wise
The years have changed you somehow, I see now
Smoking
Drinking
Never thinking of tomorrow
Non-chalant
Diamonds shining
Dancing
Dining
With some man in a restaurant
Is that all you really want
No. Sophisticated Lady, I know
You miss the love you had long ago
And when nobody is neigh
You cry
No. Sophisticated Lady, I know
You miss the love you had long ago
And when nobody is neigh
You cry
You cry
You cry

“ソフィスティケイテッド・レディ”(デューク・エリントン)

若かりし頃、貴女の許に恋が訪れ
その心に炎を燃やしたと人の噂
でもある日、その炎は瞬くと
消えてしまい、闇だけが残った
それからは、瞳に幻滅を宿して
貴女は恋の愚かさを知る賢者
月日が貴女を変えてしまう
僕の知ってる今の貴女の姿に
煙草を吹かし、酒をあおり
明日も考えぬ、自堕落なフリ
ダイヤの輝き、ダンスの日々
夜ごとに違う男とレストラン
貴女が望んでいるものは
本当にそれなのでしょうか?

きっと違うはず、知性溢れる方
その昔の恋を今も忘れられず
そばに誰もいなくなるといつも
涙しているのではないですか?


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チャーリー・パーカー


チェット・ベイカー(ボーカル)


久々のブログ更新。シーズン2とでもしておこう。

最近は“反逆者前衛党/衡涕社”の活動の都合で、新宿に出向く事が多い。私の通っていた高校と大学はそれぞれ田町と多摩に在った為、元々新宿はそう思い出深い街でもなかった。駅は無駄に広く今でも時折迷子になるぐらいだし、松戸から行けば上野や池袋の方が近い為、運動の関係でなければ普段遊びに行く事は殆どない。そんな縁遠かった新宿に私が初めて降りたったのは、高校を卒業してからの事だった。

当時私はまだ十代の浪人生で、何故かは覚えていないが、現役で大学に進学した同級生の女の子に呼び出され、駅近くのとあるバーに一緒に飲みに行った。そこでは偶然パーカーの“言い出しかねて”が流れていて、ジャズ通の私達はそれを喜んだものだ。

チャーリー・パーカー“言い出しかねて”


― 前に「繊細なのはあんまり好きじゃない」って言ってたよね

― パーカーは繊細じゃないよ

音量の小ささをごまかし、豪放無頼を装ったジーン・アモンズとは違って、パーカーの音量はマイク無しでも響き渡る大きいものだったと聞く。勿論彼の真骨頂は音量ではなく、天から舞い降り、自在に旋回するが如くの、自然できらびやかなフレージングにある。タイトルの“ジャスト・フレンズ”が収められているパーカー『ウィズ・ストリングス』(ヴァーブ)を初めて聴いた時などは、彼のフレージングに愛称の“バード”よりも、“フェアリー”又は“エンジェル”の印象を強く感じたものだ。

妙ちくりんなネオンの飾ってある、ほの暗い店内だった。私は悪党らしくウイスキーをショットで呷りながら、ピースライトに火をつける。(その頃はまだエコーではなく、ピースライトを吸っていた)
酒と昔話が進んでくると、彼女は次第に暗くなり、ふと私に高校時代に付き合っていた男と別れた旨を告げた。

― それ、どちらから切り出したの?

― 私。明日からは、あの人ともただの友達


本人にはそう言ったかは知らない。しかし、「明日からは、ただの友達」なんて、そんな残酷な言葉が果たして他にあるだろうか。同性として男の立場に立てば、自分の下に舞い降りてくれたはずの妖精が何の前触れもなしにいきなり眼前から消えてしまうとすれば、これは一体如何程の苦痛になるだろう。私には未だによく分からない。その時も落ち込んでいく彼女をどう慰めたら良いのか検討もつかなかった。暫く無言で居たら彼女が遂に涙まで流し出したので、

― 私はその手の話は分からん。なんで泣いてるのかも分からん

― まぁ取り敢えず飲め、飲め

とだけ伝えた。男女関係なんだから背後に複雑な事情があるのかもしれないが、常識的に考えて泣くべきは男であって、その子ではない。むしろ、高校時代の二人の仲の良さを知っている私からすれば、てっきり二人は結婚するものかと思っていたので、報告を聞いて何だか泣きたくなるぐらい悲しかった。日本国を前進させるらしき「大きな物語」にこの私が捕われるかは知らない。しかし、これまで私の心を確実に掴んできた“フェアリー・テイル”の喪失には、幾らよく有る話とは言え、いつだって胸が痛んだものだ。

私はその日は大して酔いたい気分ではなかったのもあり、結局その子に飲ませすぎて完膚無きまでに潰してしまった。その話を打ち明けられる前に、研究や音楽の話で大分盛り上がっていたので、バーを出る頃には終電はとっくに過ぎていた。肩を貸して移動しているうちに、たまたまタクシー置き場を近くで見つけた為、一万円を渡してタクシーに無理矢理詰め込んで家に帰した。その子とは割と近所に住んでいたはずが何故か以降疎遠になり、それっきりもう何年も会っていない。

― 彼女はパーカーの“ジャスト・フレンズ”を聴いた事はあっただろうか

― 「もう君は俺を必要としないよ」と、パーカーは言っている。確かに楽器で語っている

一昨日新宿に降りた時、ふとそんな昔の出来事を思い出し、久しぶりにピースライトを買ってみた。
エコーほど美味くないが、何処か陰のあるパーカーのフレージングのような味だった。

//
“Just friends”

Just friends, lovers no more
Just friends, but not like before
To think of what we've been
And not to kiss again
Seems like pretending
It isn't the ending

Two friends drifting apart
Two friends but one broken heart
We loved, we laughed we cried
And suddenly love died
The story ends
And we're just friends

ジャスト・フレンズ

ただのお友達、もう恋人同士じゃないの
ただのお友達、前とは違うわ
二人の今までのことを思って
でももうキスなんかしない
そんな終わりじゃないようなふりして・・・

お友達として二人別々の道を行くの
でも、一つの心は壊れて・・・
私達、愛し合い、ともに笑い、泣いたわね
そして突然恋は逝ってしまった
物語はおしまい
私達、もうただのお友達よ

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栃木県宇都宮市で日本ウイグル協会理事であるイリハム・マハムティ氏の講演があります。
ご参加宜しくお願いします。

//
民族問題を通じてアジアの未来を考える三民族合同講演会

日時 平成22年3月7日(日) 14時00分 (13時30分開場)
場所 栃木県宇都宮市陽西町1-37
栃木県護国神社内 護国会館
内容 登壇:
  ツェワン・ギャルポ・アリヤ(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 事務局長)
  イリハム・マハムティ(世界ウイグル会議 日本全権代表・日本ウイグル協会 理事)
  林建良(日本李登輝友の会常務理事・医学博士)
  水島総(日本文化チャンネル桜 代表) [コーディネーター]
会費 1,000円
主催 日本文化チャンネル桜 二千人委員会 栃木県支部
http://www11.ocn.ne.jp/~chsakura/
協力 日本文化チャンネル桜、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所、
日本ウイグル協会

【会場について/交通手段】

↓会場「栃木県護国神社」までのアクセスのご案内は、
↓以下のURLを開いたウェブ上のページにございます。
http://www.atochigi.ne.jp/kanto_bus/map.html

◆バスでのアクセス - JR宇都宮駅よりバス15分・作新学院前下車徒歩1分。
 宇都宮駅から作新学院までの運賃は200円となります。
 1・2・4・6・7番のりばから作新へ行けますが、6・7番の方が本数が多めです。
 尚、作新学院行きバスは「作新学院経由」の表示があります。
 また、交通状況により乗車時間は変わりますので、余裕を持ってお越しください。
 東武宇都宮駅前停留所からもバスが出ております。

◆車でのアクセス - 東北自動車道 鹿沼インターより約15分・駐車場有り。
 駐車台数には限りがあります。可能な限り公共交通手段をご利用ください。
 駐車場内での事故に関して、主催者は責任を一切負いかねます。
 また、違法改造車両、街宣用車両の乗り入れは、固く断り致します。
 (当該車両の判断は、主催者側の主観によります。)

※託児施設もございませんのであらかじめ御了承ください。

当日のご来場を心よりお待ちしております。


膨張する自意識の陰で、色々な喪失を経験してきた。私は今でこそ随分と丸くなったものの、若い頃は相当戦闘的で威圧的な人間だった。ある意味で戦友であった藤井氏との長年の関係や、非公式対談に至った右翼文学者山村是成氏との関係も、断絶の理由としてはまぁそんなところだろう。例えサルトルの言を真似て「彼等との友情は坦々たるものではなかった」としても、思想が違う同世代である故に許せない事もあり、そうした決別に未練などある筈もない。だが、選択肢によっては、私にもまた別の未来もあったのかもしれないとは思う。愛情に関してもそうだった。私は明らかに非モテの御面相だが、左翼活動家という肩書きからか昔から世話を焼いてくれる女性の友人は多く、やはり選択肢によっては、別の未来があっただろう。
老いて勝ち得る筈の知識と経験に関しても、若き日に望んだ歳相応のものは築く事が出来なかった。藤井氏と共に中核派の集会にデビューした当時、私は織田さんの一個前の全学連委員長を含む沢山の大学生を前に、「私はこれからこの世の全ての知識を勝ち取るつもりだ」と宣言した。傲慢にも思えるだろうが、口に出しても恥ずかしくない程度の実力は持っている自負があった。それがもうじき25歳を迎える今ではこの体たらくか、と時折激しく落ち込む事もある。たまに父と話す時、小僧っ子扱いされて気付く。ああ、やはり私自身今まで随分と惰眠を貪るように生きてきたのだな、と。時間ほど人間にとって喪失の痛手を負わせるものはない。

ただ、今残っている友人にはいつも本当に感謝している。唯一友人の存在が私をこの世に繋ぎとめてくれている気さえするぐらいだ。死んだ子の歳を数えても仕方がない。恩に報いる為にも、今後も精進を続けたい。

雪の中をかける/小犬のように
帰り道たしかめながら/遠くへ
ひとつ上の愛を/求めたわけじゃない
ひとつ上の恋を/探したわけじゃない


村下孝蔵の曲に出てきそうな場末の喫茶店、一杯のコーヒーを飲みながら、今までの喪失と新たな決意について想う。

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私と同年代の左翼の中ではお馴染みの、深沢七郎の作品である。深沢は嶋中事件のきっかけとなった『風流夢譚』の作者でもあるだけに、右翼の方からは反発もあるだろうが、実は私もこの手のアナーキーな作家を苦手としている。彼の代表作である“楢山節考”を読んだ時はひたすら戸惑った。多かれ少なかれヒューマニズムを基調としている現代に生きる私は、人間の生き死にが慣習に従ってごく自然に流れ作業的に処理されている作中の情景にある種の恐怖を感じた為に、それっきりどう解釈すればいいか全く分からなくなった。当時の仲間の一人で、やはり現在は喧嘩別れしてしまっている藤井氏は、「深沢は三島より文才に長けていた」としきりに強調していたが、私にはある意味太宰風の薄気味悪さしか印象に残らなかった。

嫁が死んだら、母親が隣村から丁度いいタイミングで寡婦になった女を引っ張ってくる。見合いも挙式もなく、そこにあるのはお互いの合意だけである。一様に貧しい村民にとっては結婚等の行事より食糧問題が喫緊の問題であるから、厳しい掟によって、村の中で盗みをやらかした者は、一家全員村の者に袋叩きにされ、家捜しで食糧を奪われて、それらは全て村民に山分けされる。文字通り“根絶やし”である。そして、楢山参り。と言っても聖地に参拝に行くわけでも何でもなく、これは要するに口減らしの為の棄老の事であり、70歳を過ぎた老人は皆楢山に行かなければならない。拒絶すれば、罪人のように縛られて連行され、終いには無情にも付き添いの息子に谷に蹴り落とされたりする。

これらの流れが実にスムーズに描かれており、私も終始圧倒されたのは確かに事実だ。藤井氏は「深沢作品は死を隠蔽しない」と評価していた。しかし、私は日教組教育の申し子として、死を隠蔽しない事が本当に良い事なのか、それすらも甚だしく疑問である。今日日産経新聞をチラチラ見ていると(私の職場では殆どの新聞がタダで読める)、「大人社会が子ども達に“死”を見せまいとしてきたからこそ、今日少年犯罪が増えている」といった主張が多く見られる。本当にそうなのか。私は若い頃から身内の死にも友人の死にも立ち会った経験があるが、今振り返っても「大人社会にはもっと配慮して欲しかった」というのが本音である。

深沢と同世代の作家で、私の好きな水上勉は、幼少の頃、家庭を顧みなかった父親の為に生活が困窮し、9歳の時に親元を離されて京都の臨済宗寺院相国寺塔頭である瑞春院に預けられたという。私を惹きつける彼の人間愛は、そんなのっけから波乱に満ちた幼少期から徐々に育まれていったのだろう。私は波乱こそあったもののそこまで凄まじい苦労はしてない代わりに、よくやくざな父に茶碗でひっぱたかれたり、何処の寺で買ってきたのか知らないが、座禅用の硬い木の棒(“愛棒”と呼んでいた)で事ある毎にぶちのめされていたものだ。ところが、小さい頃の私にとって、そんな痛みなどは全然大した事はなかった。それよりも私がどうしても耐えられなかったのは、父もいて、母もいて、大好きなお人形もぬいぐるみもいて、今生きている皆のいる永遠、私の抱えていた幼いユートピア的幻想が大人社会によって崩される事だった。

― お母さん、今言ってた「命を落とす」ってどういう意味?

― 「死ぬ」ってことよ。死んだらその人間は二度とこちら側に戻って来れないのよ


これは幼稚園児の頃だったか、もっと前だったか、生まれて初めてフジテレビの夜9時のニュースを見た時の会話で、確か何かの海洋事故の報道だったと記憶している。母の返答を聞いた時、私は怖くなって泣き出してしまった。兄と比較したのか、母は随分と私を呆れて見ていたものだ。

子どもが“死”をイメージ出来ないなんて嘘だと思う。深沢の描いた棄老伝説が仮に本当に存在していたとしても、それはどこまでも大昔の話だ。死を歪曲なく教えるより、夢を育みやすい環境を作り、教育を施し、あとは周囲がひたすら愛情を注ぐ事によって、少年犯罪を巡る状況は大きく変わるのではないかと信じている。

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アレクサンドル・スクリャービンの二つの舞曲、作品73-1“花飾り”、作品73-2“暗い焔”は、“悪魔的詩曲 ハ長調 作品36”を別格として、その次にお気に入りの作品である。ロシア的叙情に増して強調されているスクリャービン作品特有の凍て付く陰鬱さ、文字通りの悪魔的な響きは、人間の深淵というものに思いを馳せさせる。これは時折思い出したように気付く事だが、スクリャービンに触れている時、徐々に緊張しゆく精神を自覚する時こそが、私が特別意識的に生きている恍惚の瞬間なのだ。温かみと安らぎのあるショパンやベートーベンのピアノソナタと比べても猶心地よく感じる事も多い。そして、ことスクリャービンの楽曲理解において、ウラジミール・ソフロニツキに比肩するピアニストはいないと言われている。彼はスクリャービンの死後、遺児となった娘のエレナと結婚した。つまり、スクリャービンからすればソフロニツキは娘婿にあたるわけだ。そして彼は、スクリャービン未亡人ヴェーラによって、スクリャービンの最も正統的な演奏家として認められている。あのホロヴィッツにもスクリャービン解釈を巡って意見したという逸話も残っているが、本当だろうか。

ソ連が生んだ伝説的ピアニストである彼の弾く二つの舞曲をエンドレスで聴きながら、ウイスキーに舌鼓を打つのは、私の最高の贅沢だ。花と焔の暗示する深淵、床がぬけるような奇妙な感覚。まるでヒッチコックをファンタジーにでもしたような世界が眼前に広がっていく。バタイユ嫌いの私だが、美しいカルロッタが憑依するこの恍惚だけは喜んで受け入れよう。と、この文章を書きながらも、意識がまどろんでしまっている。

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― ドン・ジュアンは初めから地獄に堕ちる運命にある。というのは愛することができないのだから。もし不幸にした女たちを本当に愛していたのなら、この愛人たちを愛したようにすぐにも神を愛することもできたであろう。けれども、ただ肉体のみが興味の対象だった。神に捧げる愛は肉欲には取って代われない。神への愛は、被造物のために七転八倒し苦しんだ心を高鳴らせるものなのだ (フランソワ・モーリヤック『日記(Ⅱ)』)

当初大掛かりなジョルジュ・バタイユ批判を予定していたが、私は元々哲学科の出身でも何でもなく、持ち合わせの知識を総動員して“理性主義”の立場から彼の作品と哲学を批評しても何の意味もない為、気分を変えて私達世代の流行作家の一人でもあったフランソワ・モーリヤックについて書こうとも考えた。しかし、既に袂を分かった私と同学年の右翼文学者が、「自分は三島由紀夫と同様、バタイユから多大な影響を受けた」という話をしていたのを思い出し、彼へのあてつけではないが、一応「モーリヤックから多大な影響を受けた」者として、せめてバタイユの悪口の一つでも書いておこうと思う。

― 腰かけたまま、彼女は片足を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるため、両手で皮膚を思いきり引っ張り。こんなふうに、エドワルダの≪ぼろぎれ≫はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の毛むくじゃらの、いやしい蛸。 (ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』)

― エロティシズムに背を向ける場合は、可能なものに、生命の維持に背を向けることになる。大抵いつも、エロティシズムは、蔑まれる。その蔑みの卑怯さについて一言しておかねばならない。運よくいけば、悲壮な恍惚へ己を導き得たであろうものを誹謗するものは卑怯者である。(バタイユ『エロティシズムに関する逆説』)

『マダム・エドワルダ』。これほどまでに汚らわしく、下品で、吐き気を催し、文を抜き出すのも躊躇われる三流ポルノ小説をお目にかかったのは初めてだ。ヘーゲルを始めとする従来の≪非連続性≫の哲学、事象の偶然性や非合理性を省みない前提を覆し、忌避される傾向のある変態的なエロティシズムに生の≪連続性≫の何かを見出そうとした、という意図があるのかどうか知らんが、私ら無頼派は人間の聖性に神を見出し跪きこそすれ、行きずりの女のヴァギナに神を見出す恍惚などは断固御免被る。そもそも彼が批判している理性主義の流れを始め、哲学の前提として、自らある種の限定性―ある種の必然性や合理性の範疇の思索である事―を無条件に据えておかなければ話にすらならない事は明白だろう。哲学とは言うまでもなく全人間にとっての全知全能のツールではない。しかし、それでも限定性を踏まえつつ、哲学それ自体の価値を強く信じなければ何も始まらないのだ。

右翼文学者の彼は、ヴァギナは女性性の象徴転じて生の象徴、みたいな事を言っていた気がする。ここが左翼と右翼の違いなのかもしれないが、私は根っからの唯物論者で狭量であるから、「文学的曖昧さ」という代物をどうにも受け入れがたいところがある。勿論これは男根主義からくる拒絶などではなく、幾ら私が純正強者の前衛悪党であると言っても、女性様のヴァギナ同様自分のペニスを何かのシンボルとする気など毛頭ない。もしその気があればパンツで隠したりせず、わざわざモロ出しにして町中を闊歩している事だろう。
そしてセックスについても同じ事が言える。やれ快楽だ男女の愛の確認だ等と世迷言を言ったところで、とどのつまりこれは“生殖行為”であるというだけなのだ。動機として下手な意味付けをしても行為の価値は何一つ変わらない。今日日の下劣な流行小説を見ればわかるように、書き手と読者が双方でセックスと下手な意味付けの堂々巡りに懸命になっている様と言ったらそれこそ滑稽でしかない。モーリヤックは「エロチシズムは袋小路である」と断じたが、当然だ。

文学とは、人間にとっての普遍的価値の為に働きかけるものでなくてはならない、と私は考える。葛藤、孤独、愛、苦しみ、救い、それぞれの内面の美徳と悪徳を巡る相克。これこそが描かれるべき人間の真実であり、我々新左翼の問題提起でもある。今でも私達が声を上げて語るべきはエロチシズムでも肉と放蕩の与太話でもなく、人間の聖性の在り処の問題なのだ。その意味でも、モーリヤックがカミュと並んで私達の世代に広く読まれたのは、まさに必然だったと言える。

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“I, Don Quixote”


― 情愛の論理に従う者は情愛の論理に死す。権利や資本の論理にもまた、それぞれの論理の表と裏、生と死とがあろう。知己の理解にのみ生きた伯牙が鐘子期の死んでのちおのれの琴の弦を断ったごとく、もし人あって、みずから一つの論理によって立つことを表明し、その同じき論理に死ぬのであればその論理のかたちはどうあれ、それはそれでいいと私は思っている。(高橋和巳『文学と友情』)

過去mixiでミュージカル『ラ・マンチャの男』について感想を書いたところ、一般人よりも活動家に好意を持って迎えられた為、幾分驚いた経験がある。風車に突撃し、売春婦を麗しの姫としたドン・キホーテの姿は、かつて金友隆幸氏が指摘したように、何処かイエス・キリストの姿を彷彿とさせるものだ。彼等の滑稽なまでの純粋な生き様は、真人間や二束三文のプロ市民とは一線を画し、常に狂気を身に纏っているのが理想とされる活動家の琴線に触れるのだろう。特にドン・キホーテの臨終の場面は象徴的である。『ラ・マンチャの男』が歌われる最中での死、そこには現実を相手取った闘争の終焉が在り、またある意味では失われた平穏への回帰、静寂が在る。英雄の飛翔する精神は世界を変革し得ず、地に朽ちていく。目撃した者は全て、ドン・キホーテに己の姿を重ね合わせて敗北を自覚する。しかし―最後のアルドンサ=ドルシネィアの一言(「ドン・キホーテは生きている。それを信じよう」)によって、メシアの永遠の復活が示される。同時に私達も再び歩み始めるのだ。崇高な魂はいつだって不滅であり、一体誰がその事を否定し得よう?そして、例え私達に科学や信仰に生きる天命があったとしても、私達の人生の第一義と残された唯一の希望は「意志によって世界を規定する」ドン・キホーテ的試みそのものであって、自らは滅びつつも隣人の運命に引っ掻きキズを入れようとする不断の努力に他ならない。

“Dulcinea”


講談社のベストセラー絵本に『あらしのよるに』という作品がある。嵐の夜に出会った狼のガブと羊のメイが、それぞれの掟を破って種族を超えた禁断の友情を育み、狼の追っ手を逃れて愛の逃避行をするという話である。元々主役二匹の性別についてはこれといった記述がない作品なのだが、そこの解釈を巡って、ある美人女性とこんな会話を交した事がある。

―狼のガブは最後に男を見せました。好きな女を守ってくたばったんだから、本当に大したものです

―狼のガブと羊のメイ、どちらが男でどちらが女、という事はないんじゃかなぁ

確かにそうだ。安易に固定観念に囚われてしまっては、設定を不明確にする事で解釈を読者に委ねた製作者の意図を量りきれない。むしろ男性性と女性性、どちらの場合も想定しながら読むと面白いだろう。現実の世の中にも勇敢な女性もいれば、頼りなげな男もいる。個人的には、最終的に何かに命を張るのは男だけであるべきだと思うが、そこは置いておこう。ここでこの作品を挙げたのは、認識における“両性性”の暗示の為である。自らの生んだ幻想、仮初の力、マッチョイズムに全てを負い、闘争の現場で角材やバールを振り回して闘っている屈強な男であろうと、絵本とお人形遊びが大好きな何処にでもいる生娘であろうと、どんな人間であろうとこれは何一つ変わらない。人間は誰しもがドン・キホーテであり、同時にドルシネィアでもあるという事実だ。女性の聖性については殊更言うに及ばず、例え歴史に名を刻むような豪傑であっても、心の何処かでは、誰かが自分の真実の姿を見出してくれる事を望み、例えハッキリとした形でなくても「愛されたい」と願っている。そして、心から愛しい人の助けになりたいと思っている。これを「乙女チックな願望」などと言うなかれ、ドン・キホーテとて一人で立ったわけではなかろう。このささやかな願いが叶えられなかった人間は一様に弱くなる。もしその身に仮借なき力が降りかかった時には、支えも抗う術もなくなってしまうのだ。
当てはまらないとすれば、純正強者の悪党である私達ぐらいのものだろう。だからこそ、隣人に向ける素朴で温かい眼差しは、半端な政治性などよりもずっと社会を救う。再び英雄を立ち上がらせる力になる。私はこれからの人間の良心に最後まで期待をかけずにはいられないのだ。

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“The Impossible Dream~Dulcinea~I, Don Quixote”


(以下mixi日記)
アルドンサ「どうして、あたしをドルシネィア姫と呼ぶの?あたしに何をして欲しいの?」
ドン・キホーテ「姫におつかえし、勝利をささげ、敗北のおりにはその名に命をささげることを許してほしい、と。」

アルドンサ「何でこんなばかげたことをするの?」
ドン・キホーテ「この世に幾ばくかの優雅さを付け加えたいと存じまして…」 
アルドンサ「だけど、あんたのやってることは、負け戦だよ!」
ドン・キホーテ「勝ち負けは、問題ではござらん!」

「夢にも見しその姿、我が心のすべてよ」
出会った瞬間から自分を姫と呼び、慕ってくるドン・キホーテに、売春婦アルドンサは訳も分からず戸惑う。ところが、最初は訝しがりウザがっていた彼女も、ドン・キホーテと接するうちに徐々に自らの秘めた聖性《ドルシネィア姫》に気付くようになっていく。

風車を魔王とし、戦いを挑むドン・キホーテ。それは妄想に憑りつかれ、現実を見失った反抗的人間の様だ。
ただ騎士道精神に則り、他人から滑稽に見られる事をものともしない彼だからこそ、彼と出会う前は“やさぐれビッチ”に過ぎなかったアルドンサに、彼女の真実の姿であるドルシネィア姫の心を見出し、俗世の泥の中からその美しい魂を救ってみせた。

ドン・キホーテが現実の自分の姿に気付き、死の淵に立っていた時、突如現れたアルドンサ。既に正気に戻っていたドン・キホーテはアルドンサの事を思い出せない。
アルドンサは語りかける。
「自分のすべてを変えてくれ、自分を違う名前で呼んでくれた…」
そこには以前のあばずれ女の姿はなかった。彼女の必死の呼びかけで、ドン・キホーテは死の間際記憶と精神を取り戻す。

結局ドン・キホーテは病に倒れるが、彼の死後アルドンサは言う。
「ドン・キホーテは生きている。それを信じよう」
と。

一体、彼を誇りに思わない男がこの世にいるだろうか?
また、私は“愛”という概念を、彼と同じ様に捉えている。女性の心の内のドルシネィア姫を見出し、ドン・キホーテ的美徳を伝えていく事こそが、私の望みだ。

「……人生自体がきちがいじみているとしたら、では一体、本当の狂気とは何か?
夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。
現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれぬ。
だが、一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に、ただ折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことだ」


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