竹田の子守唄 ― 赤い鳥
先日、私も執筆者の一人として携わっている新雑誌『イチゼロ』の編集者会議の中で、フォークソング本来の土着志向についての話を“Mystery Tramp”こと中谷氏から伺う機会があったが、その話を聞くや否や私はすぐに“赤い鳥”の『竹田の子守唄』の事が頭に浮かんだ。元々門外漢という事もあり、私には系統だった民俗学の知識が無く、せっかく話を膨らませる好機であったにも関わらず、そのような平凡な連想しか出来なかった事は自ら恥じるべきなのであろう。己の不勉強を省みて今後の課題としようと思う。
しかし、一般に左翼は、例え『インターナショナル』の歌詞をはっきりとは覚えていなくても、『竹田の子守唄』ならば皆澱みなく歌えるものだ。それは恐らく「フォークソングとして定番のナンバーだから」「元々被差別部落で唄われた歌であったから」というだけの理由ではない。商業主義に流れる事を良しとしなかったフォーク歌手と同じく、左翼も本来的には土着的な文化を志向する存在であるのではないか。広義の民俗概念分析と理解を、右翼・保守派の唱える中央集権的なパトリオティズムや大衆的ナショナリズムと対置する形で据えてみたらどうだろう。これは現状の不毛な愛国論議を建設的な論議に高める手立てとなり得る、などと今もうっすらと考えている。些か常識的に過ぎる知識かもしれないが、『竹田の子守唄』は熊本県の代表的民謡『五木の子守唄』と同じく、元々一般的なイメージの子守唄―赤子を寝かしつけるための歌ではない。子守をする少女達が自らの境遇を歌詞に託して唄った歌である。言うまでもなく、彼女達を巡る境遇は決して微笑ましい話などではあり得ず、貧しさの為に教育を受けられなかった幼い守り子が赤子を背負い、あやしている姿には、細井和喜蔵『女工哀史』に通じる暗さがある。但しその情景は、表現はやはり適切でないかもしれないが、現代的価値観から下される悲哀への処方箋とは別に、善悪の概念を抜きにして、確かに日本人の“心の原風景”ではあるのだろう。私がかつて批判した深沢作品のように、現実をありのままに捉えて事足れリとし、何処かで人間存在に深い温かい眼差しを向ける事を許容しない極端な視点は好まないが、民俗学を通して人々の“心の原風景”を探る作業は今日では極めて重要な意義を持つ筈である。
余談だが、私の父は宮崎県出身であり、神話や個人的な思い出をも交えつつ、『稗つき節』や『刈干切唄』、隣県の『五木の子守唄』等ポピュラーな民謡についてはよく唄って聴かせてくれたものだ。私自身は未だ九州に行った事がないが、果たして血の為せる業であろうか、自分を那須大八と鶴富姫の意志を受け継ぐ末裔と想像してみたり、九州の土着的な文化には特に郷愁の念に駆られてしまうのが大変不思議な現象ではある。
稗つき節 ― 宮崎県民謡
五木の子守唄 ― 熊本県民謡
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先日、私も執筆者の一人として携わっている新雑誌『イチゼロ』の編集者会議の中で、フォークソング本来の土着志向についての話を“Mystery Tramp”こと中谷氏から伺う機会があったが、その話を聞くや否や私はすぐに“赤い鳥”の『竹田の子守唄』の事が頭に浮かんだ。元々門外漢という事もあり、私には系統だった民俗学の知識が無く、せっかく話を膨らませる好機であったにも関わらず、そのような平凡な連想しか出来なかった事は自ら恥じるべきなのであろう。己の不勉強を省みて今後の課題としようと思う。
しかし、一般に左翼は、例え『インターナショナル』の歌詞をはっきりとは覚えていなくても、『竹田の子守唄』ならば皆澱みなく歌えるものだ。それは恐らく「フォークソングとして定番のナンバーだから」「元々被差別部落で唄われた歌であったから」というだけの理由ではない。商業主義に流れる事を良しとしなかったフォーク歌手と同じく、左翼も本来的には土着的な文化を志向する存在であるのではないか。広義の民俗概念分析と理解を、右翼・保守派の唱える中央集権的なパトリオティズムや大衆的ナショナリズムと対置する形で据えてみたらどうだろう。これは現状の不毛な愛国論議を建設的な論議に高める手立てとなり得る、などと今もうっすらと考えている。些か常識的に過ぎる知識かもしれないが、『竹田の子守唄』は熊本県の代表的民謡『五木の子守唄』と同じく、元々一般的なイメージの子守唄―赤子を寝かしつけるための歌ではない。子守をする少女達が自らの境遇を歌詞に託して唄った歌である。言うまでもなく、彼女達を巡る境遇は決して微笑ましい話などではあり得ず、貧しさの為に教育を受けられなかった幼い守り子が赤子を背負い、あやしている姿には、細井和喜蔵『女工哀史』に通じる暗さがある。但しその情景は、表現はやはり適切でないかもしれないが、現代的価値観から下される悲哀への処方箋とは別に、善悪の概念を抜きにして、確かに日本人の“心の原風景”ではあるのだろう。私がかつて批判した深沢作品のように、現実をありのままに捉えて事足れリとし、何処かで人間存在に深い温かい眼差しを向ける事を許容しない極端な視点は好まないが、民俗学を通して人々の“心の原風景”を探る作業は今日では極めて重要な意義を持つ筈である。
余談だが、私の父は宮崎県出身であり、神話や個人的な思い出をも交えつつ、『稗つき節』や『刈干切唄』、隣県の『五木の子守唄』等ポピュラーな民謡についてはよく唄って聴かせてくれたものだ。私自身は未だ九州に行った事がないが、果たして血の為せる業であろうか、自分を那須大八と鶴富姫の意志を受け継ぐ末裔と想像してみたり、九州の土着的な文化には特に郷愁の念に駆られてしまうのが大変不思議な現象ではある。
稗つき節 ― 宮崎県民謡
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