清水正「 ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載24) 〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(9)」「江古田文学」107号からの再録

 

ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載24)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(9)」

 

清水正 

 さて、さらに一歩を進めよう。ポルフィーリイは作者と結託しているから、作者の意図に反するような言葉は発しない。特に最後の会見においてポルフィーリイがラスコーリニコフに発する預言者的な言葉はすべて肯定的である。

 それによればラスコーリニコフは神によって命を準備されており、イエスの命に飛び込めば必ず向こう岸へと立たせてくれるということである。まさにキリスト教の予定説を具体的に説かれたようなものである。

 ラスコーリニコフは最初の〈踏み越え〉(アリョーナ婆さん殺し)から最終的な〈踏み越え〉(復活)に至るまで、微塵の狂いもなく〈予定〉(決定)されていたのであり、ポルフィーリイはそれをこの時点で的確に預言していたというわけである。

 ポルフィーリイは作者の思いを忠実にラスコーリニコフに向けている。ラスコーリニコフは作者によって〈復活〉を約束されていた〈殺人者〉であり、ポルフィーリイの預言に対立するような言葉を発することも、さらに預言に反するような生き方(たとえば発狂や自殺やさらなる殺人)を選ぶこともできなかった。

 ポルフィーリイは物的証拠を握っていないのに、ラスコーリニコフに対して圧倒的に優位な立場に立っているように見える。それは彼の発する言葉が、何か実にもっともらしく聞こえるということがある。彼は立場上、殺人者ラスコーリニコフの対極に存在しているが、どういうわけか肯定的な預言者風言葉を一貫して発している。

 ポルフィーリイによればラスコーリニコフは神によって命を準備されており、さらにラスコーリニコフはみんなから仰ぎ見られる〈太陽〉ですらある。こうまで一気に大胆に、肯定的な言葉を発せられると、妙な説得力を感じてしまう。しかし、少し立ち止まって考えれば、ポルフィーリイの言葉はどれも説明を必要とする。

 神によって命を準備されているということは、ラスコーリニコフが命に飛び込めば必ず救済されるということなのか。もしそうだとして、殺された二人の人間はどうなるのだろうか。殺した人間が神の恩寵に授かって救われたとしても、殺された者のことをどう考えたらいいのだろうか。

 ラスコーリニコフの名前は〈ロジオン〉(Родион)で〈薔薇〉を意味し、(иродион〉は〈英雄〉を意味する。これらの意味から〈太陽〉を連想させないことはないが、しかしポルフィーリイが「太陽は、まず第一に太陽でなければなりません」と断言できるほどにラスコーリニコフが〈太陽〉的存在であったとはとうてい思えない。第一、〈太陽〉が斧など手にして二人の女を殺したりするだろうか。ポルフィーリイはいったい何を根拠にラスコーリニコフを太陽などと言い出したのだろうか。

 『罪と罰』を読む限り、ラスコーリニコフは〈非凡人〉でもなく、ましてや古今東西の万人が仰ぎみてきた〈太陽〉ではさらさらない。ラスコーリニコフは母親からは二百年の伝統を持つ由緒あるラスコーリニコフ家の再建を使命づけられた青年であったが、ポルフィーリイからはみんなから仰ぎ見られる〈太陽〉になれとまで言われている。

 このような過剰な期待を背負わされた青年が屋根裏部屋での思索生活から追い出され、悪魔に唆されて殺人行為に走ってしまった。いったいこの〈悪魔〉とはどういう存在なのか。

 わたしの目には、この〈悪魔〉は〈神〉と結託した存在、つまり「創世記」の〈へび〉、「ヨブ記」の〈悪魔〉と同様の存在に見える。どういうわけか〈神=悪魔〉はラスコーリニコフに最初の〈踏み越え〉を行わせることで、最終的な〈踏み越え〉(復活)へと至らせたかったように見える。これが作中の〈神=悪魔〉がラスコーリニコフに〈予定〉したことであり、作者がそのことに同意したことで決定づけられたのである。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月