キリスト教も本当の仏教(釈迦生存当時)も懺悔、反省が大切だと説かれました。

真摯に道を求める人の中には反省に取り組みその困難さに途中で放棄して自堕落な日々に戻ってしまう人も多い。

反省が思うようにできない、思い出せない、浮かんでこない、自分は反省しなければならないような悪いことはしていない、等々、色々な言い訳で終わってしまう人がいる。

 

生まれてから何も間違いを犯していない人はいないと言っていいだろう。

人は自覚してるか、していないかの違いはあっても間違いや罪を犯す、環境や教育、時代によって正邪の判断に違いを持つこともある。

 

しかし、真の正しさの基準は反省の積み重ねの中で向上していく。

自己満足、自己中では真実にたどりつけない、なんにせよ過去の自分の人生を振り返り色々な事象を思い出すことは難易なことで中々思い出すことができずに嫌になり、やっぱり自分には無理だと諦めてしまう人も多い。

 

反省が出来たと思っても結果が何も変わらないと言う人も多い。

本当に反省がちゃんとできたのかそれが問題です。

先ず自分の過去、その時代の風潮、親子、友人、知人それらを思い出すことが一歩ですね。

長い年月の中で友人の顔も名前も思い出せないようなことも起きるでしょう。

 

高橋信次先生はあの世に帰るとカラーの立体モーションピクチャーが眼前に映し出されると仰いました。

生きていてそのようなものが見たいと思う人もいるでしょう。

でもそれは無いものねだりです。

しかし現代はブッタやイエス様の時代ではなく今という文明に生きる私たちは運がいいと思わねばなりません、それは何故かと言うと写真というものが存在するからです。

 

今、生きてる皆さんは多かれ少なかれ過去に撮られた写真があると思います。

その写真をよく見てください、写ってる当時のことを思い出すことができるでしょう一緒に写ってる人との関わり合いも思い出すことができやすいでしょう。

中には名前も思い出せない人もいるかも知れませんね。

 

意識はその写真の当時に戻ることが出来ます。

反省の材料、ツールとして貴重なものだと思いませんか、これは反省の入り口に入るためのツールにすぎません。

どのように自己反省するかは個々によって違ってくるでしょう、その結果も違いがあるでしょう、只、物事は短絡的に結果を求めても自分の思うようにはならないことも多いことを覚悟して取り組んだ方がよろしいかと思います。

アルバムに残された古びた写真は貴方の宝物になるかどうかは貴方次第です。

 

平均寿命も昔に比べて伸びました、しかしのんべんだらりと日々を暮らしていたらその肉体寿命も無駄なことになります。

 

本当の幸せは心の満足、充実感があるかどうかではないでしょうか最近よく終活ということが言われているようですが誰にでもくる避けられないことだと言うことは皆さんも知っておられる筈ですね、でもそれを考えると恐怖感しか湧かないから目を瞑り考えないようにしている人が殆んどですね。

 

考えないことにしても、その時は必ずきます、脅しているわけではありません。

肉体人生を終える最後の時に自分自身で失敗も沢山あったけど総じて良い人生だったと周りの人々に感謝しながら満足して逝けるのが一番ではないでしょうか、先延ばし、今度、そのうち、と自分自身に言い訳しながら時間だけが過ぎて何もできずに終わりを迎えることだけはないようにしてほしいものです。

 

同じ時代に肉体を持った者として皆さんの人生を意味あるものであってほしいと思います。