片影のある時分

京と江戸で道は変化し、江戸では更なる変化が訪れようとしていた。


「……行くのね」


静けさを保つ江戸に、女の言葉は酷く響いた。


「必ず戻る」


その言葉と共に二人の男が江戸の町へと消えていった。

それを見届けた女は、はらはらと涙を流し声を滲ませた。


「お咲さん、私も待ちます」


紫煙が頬を撫ぜた気がした。



「抱き締めると思ったけどねぇ」


「お前に言われたくない」


即座に投げられた言葉に、勒七はけらけらと笑った後、穏やかに言葉を浮かべた。


「進む道は刃なり 然れど其れも生きる道 落ち入らぬよう踏み立てよ」


「お前と相対死になんてご免だな」


悠助は心底嫌そうに、そして少し嬉しそうに呟いた。


すると、前方に一人の女童が現れ、誘うようにふらりと歩き出した。


「鬼が出るか仏が出るか」


「黄泉路にはしない」


悠助と勒七は一歩を大きく踏み出した。




暫くして着いたのは廃村だった。

嘗て家だったものは木の残骸となり、草が生い茂っている。


「いらっしゃい」


静かな廃村に響いた声に二人が目を遣れば、其処には笑みを浮かべた一人の童。

風が吹けばさらりと揺れそうな短い漆黒の糸に、子どもらしい大きな貴石。

その隣には先刻の女童が並んでいた。


「傀儡は捨てるのかい」


勒七の言葉に、童は笑みを消して口を楽しそうに歪めた。


「隠れん坊も細取も飽きちゃった。だから……」



――死んでよ。



「―っ!!」


何が起きたのか分からなかった。否、違う。女童が此方に走ってきたのだ。

――ただ、反応が出来なかった。斬られたのだ。あの一瞬で。


「……参ったねぇ」


鮮血の滴る右腕を押さえながら呟く勒七の隣で、悠助は斬られた左腕を見て顔を歪めた。


「命を懸けた鬼事だ」


童の言葉と共に再び女童は刀を構えると、悠助に斬り掛った。


「くっ!!」


刀は片手では扱えない。鍔迫り合いになれば確実に負ける。

女童の刀を受け止めたものの、悠助の刀はかたかたとその身を震わせていた。


「悠助!!」


悲鳴を上げる刀を見て思わず叫んだ刹那、勒七の身体はぞくりと震えた。


「駄目だよ。鬼は一人じゃあないんだから」


背後から聞こえた楽しげな声に状況を悟った時には既に手遅れだった。

ぐさりという音と共に己を襲う痛み。熱い何かが口の中に広がり、勒七は堪らず其れを吐き出した。


「……ごほっ」


視界に映るのは、あか、赤、紅。そして己の腹から突き出る血塗れの刃。


「勒七!!」


悠助の叫びと共に刀が無造作に抜かれ、勒七は力無く地面に倒れた。

意識を持たない手足はぴくりとも動かず、その代わりというように、紅血が手足を広げていく。


「落ち入らぬようにと言ったのはお前だぞ!勒七!!」


悠助は己の血が流れるのも構わず、刀を握る手に力を入れて叫んだ。


「死ぬなっ!!」


喉が裂けるのではないかという程声を張り上げ、悠助は女童の刀を弾いた。

肩で息をする悠助に、童は楽しそうに拍手を送った。


「凄い凄い。そんなに大切だったのかな」


「黙れ」


「ごめんね。でも大丈夫」


――寂しくないよ。


その言葉と共に悠助も地面に倒れた。嗚呼……血の流し過ぎか。

ぼんやりと情けなさを浮かべながら、悠助は地面に力無く爪を立てた。


「聞こえているかどうか知らないけど、僕の名前は愁。この子は梢。またね」


二人の足音が遠ざかる中、悠助は勒七の言葉を口にした。


「進む道は……刃な…り……されど…それ…も……いき…る…道……。ならば…生きる……べき…であ……ろう…」



――チリーン



空は鈍く二人を見下ろしていた。






「……お…ろよ!!」


誰だ……?勒七か?



「起きろ!!」


「――っ!!」


「うわぁ!!」


勢い良く起き上がった悠助は唖然と辺りを見回した。 廃村にいたはずの悠助は江戸の町の中にいた。

夢だったのかそれともこれが夢なのか……。

しかしどちらの考えも否定するかのように赤い左腕がずきりと痛んだ。

そこで漸く悠助は尻餅をついている一人の童に気が付いた。


「お前は……」


「酔いどれでもなさそうだし、追剥にあったわけでもなさそうだね」


些か呆れたように呟くと、童は静かに立ち上がった。


「でも、怪我してるみたいだからついておいでよ」


そう言って歩き出す童を、悠助は慌てて呼び止めた。


「待ってくれ。名を教えてくれないか」


「“悠助”だよ」


笑って振り返った“悠助”の背後には“季節外れ”の桜が舞っていた。








「はい、これで良いわ」


女はそう言って手当をする手を止めた。

落ち着いた紺色の着物を着た女は、儚く然れど強い光を持っていた。



「済みません、お咲さん」


悠助が手当てをされた左腕に触れながらそう言えば、女は恥ずかしそうに頬に手を当てた。


「いいえ。私の方こそごめんなさいね。行き成り腕を引いたりして」


このお咲という女性は“悠助”の母親だ。

悠助の血濡れの左腕を見た途端、有無を言わさず手当を始めたのだ。


「それにしても、息子と同じ名の方に会うなんて」


お咲は嬉しそうに、しかしどこか寂しそうに呟いた。

お咲の己を見る瞳に、悠助は思わず口を開いた。


「お咲さん、もう少し此処にいても構いませんか」


悠助の言葉に、お咲は小さく笑い、大きく頷いてみせた。




その日の夜、悠助は居間に気配を感じて客間を出た。

月がぽっかりと空に穴を空け、静かに庭の桜を包み込んでいる。

悠助は己を包む少し冷たい空気に目を細めると、漆黒の長髪をさらりと掻き上げて居間へと足を進めた。

居間に着けば、其処には縁側に腰掛ける“悠助”の姿があった。


「子どもが起きている刻限ではないな。夜九ツの鐘はとっくに鳴っている」


そう言って隣に腰掛けた悠助に驚くこともなく、“悠助”はぽつりと言葉を落とした。


「子どもだって考えることはあるよ」


何とも可愛らしくない、そして可愛らしい返答に、悠助はくつくつと笑った。


「そうだな。子どもは大人が思っている以上に大人だ。……どうした?」


此方を凝視する視線にそう問えば、“悠助”は思わず零れたというように口を開いた。


「変なの……」


「変とは失礼だな。否定して欲しかったのか?」


「そうじゃないけど……」


“悠助”は口をぎゅっと結んだ。悠助はそっと笑みを浮かべると、穏やかに話し始めた。


「……今宵は良い月が出ているな。お前が元服していれば杯を交わすところだ」


「父上も同じようなことを前に言っていたよ」


「そうか……。“悠助”は父が苦手なのか?」


複雑そうに呟いた“悠助”にそう問えば、これまた複雑そうに口を歪めた。


「昔は父上が苦手というか、好きじゃなかった。羅刹なんて追い掛けて、俺や母上を置いて旅しているから……。でも、何時の間にか羅刹を嫌うようになっていたんだ。父上を奪う悪い存在だって思うようになった」


「(そうだ……最初は単なる嫉妬のようなものだった。恨みではなく、ただ……父上に会えないのが寂しかっただけ……)」


“悠助”の言葉に、忘れていた感情が蘇った悠助は、何も言葉に出来なかった。

そんな沈黙を破ったのは“悠助”だった。


「……何だか眠くなってきたよ。お休みなさい、お兄ちゃん」


「……お休み」


“子どもらしい理由”でいなくなった“悠助”に思わず苦笑が零れた。

空を見上げれば、月は優しき母のように、温かい父の様に、何時までも光り輝いていた。



三日後

悠助は酷く居心地が悪そうに杯を傾けた。

決して“悠助”と杯を交わしているわけではない。

悠助がいるのは、色気が目に見えるのではないかという程甘美な明暗が浮彫となっている世界。

丸で明闇の堺にいるかのようにぼんやりとした世界。名を吉原といった。

妻子ある己が、まさか登楼することになろうとは……。悠助は隣で杯を傾ける男を一瞥して溜息を吐いた。

己と同じ漆黒の長髪を結い上げ、凛と張った涼しい目元を持つ隣の男は“悠助”の父親だ。


「ご機嫌でありんすなぁ、夜彦様」


そう言って可笑しそうに笑ったのは、吉原の花魁。名は紫苑。

その隣には振袖新造の雪代がいる。


「そうかい。それならこれ以上溺れぬようにお暇しようか」


「余計なことを言ってしまいんした」


軽く言葉を浮かべた紫苑に夜彦は笑うと、雪代に声を掛けた。


「見送りを頼んでもいいかい」


「!……あい」


雪代と共に部屋を出ると、ひやりとした空気が突き抜けていった。


「此処に来るのも最後かもしれないな」


ぽつりと呟かれた言葉に、雪代と悠助は目を丸くした。


「もう来ないのでありんすか」


夜彦は雪代の掠れ声に優しく微笑むと、静かに口を開いた。


「羅刹はこうしている間にも動いているからね」


「……夜彦様は、恨んでいないのでござんすか」


「恨む?」


「羅刹がいなければ家族と過ごせるでありんしょう」


合点が行った夜彦は、優しい笑みを雪代に向けた。


「勿論。怒ったり、羨んだり、恨んだりという感情を持っていないわけではない。だが、強すぎる感情は、他人だけではなく、己も傷付ける。良いかい、雪代。決められた枠から食み出す感情は持ってはいけない。持ってしまった時、制御出来なければ生まれるのは破壊だけだ」


「……」


「よく判らないという表情だね。まぁ、私自身もよく判らない」


「!!」


「だが、生きる道というものは己で歩いて行くものだ。負の感情の原因が他人にあっても、其れを制御出来なかった時は己の責任。私はそうやって生きているつもりだ。他人を己の過ちの理由にしたくはないからね」


雪代と悠助は、何も言えなかった。否、言ってはいけない気がしたのだ。

それ程、夜彦の言葉は重たかった。



雪代に見送られ、素見騒きが蠢く中、夜彦と悠助はゆっくりと歩いていた。


「何故、俺を吉原に?」


前を向いたまま疑問を落とした悠助に、夜彦は同じように口を開いた。


「やりたいことが沢山あった。お咲と老いて死にたかった。悠助の成長を見守りたかった。悠助の家族に会いたかった。悠助と酒を飲んでみたかった」


悠助は思わず立ち止った。違和感が大きく波立ったのだ。


「何故……」


思わず落ちた文字は、丸で刃の様に二人を空間から切り離した。


「大きくなったな……」





「悠助」





それが全てだった。唖然とする悠助に対して、夜彦は穏やかに笑みを浮かべた。


「“夢にだに久しく見むを明けにけるかも”」


夜彦はそう言ってくしゃりと悠助の頭を撫でた。


「嬉しいものだ。夢が一つ叶った。だが、お前は戻らねばならぬな」


名残惜しそうに離れる手を、悠助は思わず掴みたくなった。しかし、夜彦の真剣な瞳がそれを止める。


「人はいずれ死ぬ。その時を選ぶことは出来ぬが、どのような想いで死ぬかは己で選ぶことが出来る。だが、それには道が必要であろう。己が死を受け入れることの出来る生きる道が……」



――大門は直ぐ其処だった。



「どんな生き方をしようと構わない。それでも、己の生きる道だけは見失うな」


夜彦が背中を押す優しさを感じながら、悠助は“大門を出た”。

気付けば、悠助は廃村に佇んでいた。静かに頬を伝う涙を拭う事もせず。


「“夢にだに久しく見むを明けにけるかも”」



淡き夢は、静かに姿を消した。

――― 季節外れの桜と共に。