スミスとフーリエ、そしてマルクスーーその労働観の違い | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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マルクス「57-58草稿(経済学批判要綱)」S.499
《なんじ額に汗して労働すべし!とは、エホバがアダムに持たせた呪いであった。そこで、A.スミスは労働を呪いと考える。「安息」が十全な状態として、「自由」および「幸福」と同一のものとし現われるのである。個人は、「その健康、体力、活動、熟練、技巧の正常な状態において」は、正常な一人前の労働への欲求をも、そこでの安息の止揚への欲求をももつのだということ、——このこのとは、A.スミスには全く思いもよらないもののようである。》
 
 
アダムーーイヴのパートナーの――にかけられた呪いが、同じ名前をもつスミスにも災いして、スミスは、労働を「自由」や「幸福」の否定としか見ることができないのだとww。呪い云々は、マルクスの冗談ですが、いずれにしても、労働の否定的側面しか見ることができず、非労働=安息にしか人間の自由や正常な欲求の対象を認めることができないスミスへの批判がここにはっきり示されています。安息を自ら放棄して労働に打ち込むこともまた人間の欲求の対象なのだとマルクスは主張しています。
 
《もちろん、労働そのものの限度は、達成されるべき目的と、この目的の達成のために労働によって克服されるべきもろもろの障害とによって外的に与えられたものとして現れる。しかし、もろもろの障害を克服することそれ自体が自由の実証なのだということ、――さらに、外的な諸目的は、単なる外的な自然必然性という外観をぬぎすてた状態にあって、個人自身がはじめて措定する諸目的として措定されるのだということ、――したがってそれらの目的は、主体の自己実現、対象化として、それゆえに実在的自由として措定されるのだということ、――そしてこの実在的自由の行動がまさに労働なのだということ、――これらのことにA.スミスは同様に気づいていないのである。》(マルクス、同上)
 
「限度」言うのは、〈範囲〉と理解した方がよいでしょう。何をどこまでするのかという意味です。これは実現したい事柄と、そのために克服しなければ障害とによって外的に与えられるものの、この障害の克服は、目的の実現であり自己実現、自由の実証なのです。また、目的も、動物のように自然必然性に強制された無自覚的な合目的的性としてではなく、それ――人間がそれを措定する以前に自然の法則性として実在しているものではあるのですが――を自覚し、意識する存在として自ら措定することで、目的意識的活動としての労働が実在的自由という意義を獲得するのです。しかし、スミスにはそれが理解できていないということです。
 
《このことは、フーリエが浮気なパリ娘のように素朴に考えているのとは違って、労働が単なる楽しみ、単なる娯楽だということを決して意味しない。真に自由な諸労働、たとえば作曲はまさに同時に、途方もなく真剣な行い、全力をふりしぼった努力なのである。》(マルクス、同上)
 
《直接的な労働時間そのものが、自由時間と抽象的に対立したまま――ブルジョア経済の観点からはそのよう見える――ではありえない、ということは自明である。労働は、フーリエが望んでいるのとは違って遊びとはなりえないが、そのフーリエが、分配ではなくて生産様式それ自体をより高度の形態のなかに止揚することこそ究極の目的だ、と明言したことは、どこまでも彼の偉大な功績である。余暇時間でもあれば、高度な活動のための時間でもある、自由な時間は、もちろんそれの持ち手を、これまでとは違った主体に転化してしまうのであって、それから彼は直接的生産過程にも、このような新たな主体として入っていくのである。この直接的生産過程こそ、成長中の人間については訓育であると同時に、成長した人間については、練磨であり、実験科学であり、物質的には創造的で、かつ自己を対象化する科学であってこの成長した人間の頭脳のなかに、社会の蓄積された知識が存在するのである。この両者にとって、労働が農業でのように実際に手を下すことと自由な運動とを必要とする限りでは、労働は同時に体育でもある。》(マルクス前掲、S.589)
 
自由な時間、この場合は、非労働時間、余暇時間という意味ですが、自由時間が労働時間と対立つしたままではありえないとマルクスは言います。余暇時間での様々な活動を通じて労働過程に入る人間自身が今までは違ったものになっていくというのです。
 
その結果、労働過程自体がこの過程の主体に及ぼす作用も変わります。青少年にとっては、教育訓練であり、大人にとっては熟練の向上のための鍛錬であり、新しい知見を試す実験過程であり、それらを通じて社会的知識を蓄積する過程であり、さらに、それが身体運動を伴う作業であるならば、青少年と大人の双方にとって、体育でもあるとマルクスは指摘しています。
 
スミスのように、労働を単なる消耗や犠牲と見るのでもなく、フーリエのように遊びや娯楽としてみるのでもない、マルクス独自の労働観がここに示されています。