社会の生産力は、その社会で行われている、これら種々の具体的労働の生産力の全体をひとまとめにしたものであるが、具体的労働力の単なる算術的総計ではない。大谷禎之介[1]は、社会の生産力を《総体としての社会が生産において自然を制御する力量》と定義する。注意を要するのは、この場合の「制御」の意味である。大谷は前掲書において以下のような注目すべき指摘を行っている。
《生産力の発展が人間による自然の制御の拡大を意味するものである限り、どれだけ物質的富の生産量を増大させる技術の発達であろうと、それが環境を破壊し、人間の自然との正常な物質代謝を困難にするようなものであるなら、それを生産力の発展と呼ぶことはできない。その意味で、「生産力が発展しすぎて環境破壊にいたった」などというのは、「生産力」という語の誤用でしかない。自然とのエコロジカルな調和を実現できない社会は、まだ、自然を制御する十分な力を持っていないのであり、まだ、そこまで生産力が発展していないのである。》(前掲書23ページ)
物質的富の生産量を増大させる技術の発達は、労働の生産力の増大であることは間違いないが、それは社会の生産力の発展、すなわち自然を制御する力量の発展ではないという。また、自然とのエコロジカルな調和を実現できないのは、自然を制御する力が不十分であることを意味するという。これによって大谷が「自然の制御」と言っているのは、人間が一方的に自然を支配し利用するというような意味ではなく、自然とのエコロジカル[2]な調和を実現することを意味していることが分かる。
だが、社会の生産力を我々が行使する目的は、単にこの調和を実現することにあるのではない。社会の生産力についての大谷の定義にもあるように、「生産において」この調和を実現することが目的なのである。生産とは、自然との物質代謝において我々の欲求を満たす有用性を持つ物財を獲得することである。社会の生産力とは要するに、エコロジカルな調和を実現しながら生産を行う力量に他ならない。