【旧稿再録】占有、本源的所有、私的所有、そして国有 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Marxは「対象への実践的な働きかけそのもの」を〈占有(Besitz)〉と呼んで、〈所有〉と区別しています。「対象への実践的な働きかけ」とは、〈主体Aが、対象Xに対して、何らかの具体的作用を及ぼすこと〉です。労働行為とほとんど重なり合っている概念といってよいのですが、まったく同じというわけでありません。労働以外にも食物として摂取する、乗り物として乗るといった消費行為も含まれています。
 
そもそも所有は、何らかの共同体的な所有として、占有主体の対象への実践的働きかけをその内容とともに、占有主体が所属する共同体によって承認されることで成り立つものでした。つまり、共同体がその共同体に帰属するメンバーと物財の間の実践的関係をその関係行為の内容も含めて丸ごと承認することで、〈所有〉が成立していたのです。そこでは、占有主体と所有主体、占有の行為としての内実と所有の行為としての内実は、どちらも一致していたということができます。このような所有の在り方は、〈本源的所有〉と呼ばれます。
 
これに対して、〈私的所有〉の方は、「社会の承認の下に対象を意思的に支配すること」であり、《関係それ自体の内容を問わない形式的な社会的承認を与えられた対象と主体のあいだの関係》です。「主体Bが、対象Xの意思的支配者として、その意思内容を問われることなく、社会的承認を受け取ること」にほかなりません。
 
ある物件(対象物)の意思的支配者として承認を受け取った主体は、対象に「自分の意思を宿す」(←ヘーゲルの言葉)ことができます。つまり、対象を自分の意思に従って取り扱うことができます。もちろん、そうはいっても、対象に宿された意思が、その通りの現実としてこの世に生まれでてくれることまでは保証されるわけでありません。
 
例えば、ある人がガラスをダイヤに変えようという意思を持ち、そのガラスを薬品に漬け込んだりしたとしても、彼がこのガラスの所有者であるなら、誰も彼からガラスを取り上げることはできません。ガラスをダイヤに変えるという意思が実現することはありませんが、彼がその意思に従って対象を取り扱うことを妨げる法的権利は誰にもないのです。
 
つまり、〈私的所有〉は、本源的所有と異なり、所有主体がどのような〈占有〉行為を行っているのかを問わないまま、否、むしろ、いかなる占有行為を行ってもいいという白紙委任を占有者に与えることに他ならないのです。
 
 ※もちろん、ここで述べているのは私的所有の純粋な規定です。社会関係が複雑化するにつれ、私的所有にも様々な規制が加えれるようになったのは、一般的に知られているとおりです。
 
〈私的所有〉においては、このように占有者が実際に行う対象支配の内容が社会的承認を受ける必要のないものとなることによって、同じ対象物について、〈所有〉の主体と〈占有〉の主体を分離することが可能となります。例えば、奴隷制社会では、土地や労働用具への直接的な働きかけ(占有)を行う主体は奴隷自身ですが、土地も用具も、そして奴隷自身も、奴隷自身ではなくて奴隷主の意思の支配下にあるということになるわけです。
 
〈#私的#所有〉は、〈社会の承認の下に対象を#排他的な#意思によって支配すること〉だといえます。私的所有者たちは、自分が自分の所有物と結ぶ関係に他人の独自的な意思が介在することを排除しようとします。
 
もちろん、他人の意思を排除するといっても、所有者が、自分の所有物を使って労働することを他人に命ずる場合,自分の所有物への他者の働きかけそのものを排除することできません。働きかけが排除できないということは、働きかけの主体、労働を命じられた者がその者自身の意思に従って所有者から預かっている対象物を操作すること自体は、当然認めざるを得ません。
 
しかし、その場合でも、非所有者である労働主体は、彼の独自の意思を対象に宿すことはできません。彼が持つことを許され意思内容は、所有主体の側の意思の範囲内のものでなくなくてはならないのです。この意味で所有者自身の意思以外の意思は事実上排除され、所有主体の意思に従わない働きかけも排除されるのです。
 
それでは、所有主体の意思とはどのようなものなのでしょうか?これについては、個別具体的なことを言えばきりがありません。ここでは資本主義(国家資本主義および普通の資本主義)に対象を限定しましょう。そして資本主義社会の一般的な傾向について述べましょう。
 
資本主義という経済システムは、価値目的の生産を根本原理としたシステムです。価値の生産と実現、その絶えざる追加的生産と実現すなわち価値増殖を第一目標とすることによってシステム全体の機能が保証される仕組みになっているのです。このようなシステムのなかでは、生産手段は当然、価値増殖の手段として機能することになります。
 
したがってまた、生産手段の所有主体はこのような価値増殖運動の担い手としてのみ、自己を維持すること、資本主義というシステムの中で生き長らえることが可能となります。私的所有の主体は、資本の論理を貫徹するために、つまり資本を増殖させるという目的をより確実かつ充分に達成するために、この目的にそぐわない意思を徹底的に排除します。
 
つまり、資本の論理、価値目的の生産を支配している論理を体現しているのが私的所有の主体なのです。これに対して、労働の直接的な担い手、所有との対比で言えば占有の主体である人々の方は、労働と享受の本来の目的、使用価値の生産と実現を目指そうとする傾向をもつものの、私的所有によって彼らの固有の意思は、生産過程から排除され、使用価値はただ価値増殖の手段として位置付けを与えられるに過ぎないことになります。
 
人間的享受に相応しい使用価値、例えば環境的自然や人間の身体的自然に適合的な生産物よりも、価値増殖に有利な使用価値が優先的に生産されるのです。
 
私的所有の主体は、何も個人である必要はありません。資本家の連合体としての法人(株式会社!)でも、国家それ自体(国家資本主義)でもかまわないのです。自分の意思を生産手段に宿すことによって、資本の自己増殖の妨げとなる意思を排除すること、これが、資本主義的な私的所有の主体に与えられた役回りなのです。
 
さて、私的所有がこのようなものであるとすれば、「私的所有の廃止」とはこのような排他的所有を排他的でない所有に置き換えることです。社会の全成員の意思が生産過程に、彼ら自身の必要に応じて介在しうるように、生産過程を開かれたものに変えることです。国家機関が一方的に指令を押し付け、労働する諸個人はただこれに服従するだけのシステム、スターリンのソ連や北朝鮮のシステムがこのような「私的所有の廃止」でないことはもはや明らかではないでしょうか?