〈全ての商品の貨幣性〉こそ、マルクス貨幣論の核心 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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 価値形態論は、物々交換からの貨幣の歴史的発生過程を描いたものではない。マルクスは貨幣の起源を論じているのではなく、今、此処にある貨幣の必然性的な存在根拠を明らかにしようとしているのである。

 舞台は、完成された商品生産社会=資本主義社会である。そこでは、すべの商品が本来的に貨幣性(さしあたっては直接交換可能性に限定してよいと考える)を持っている。そうでないとしたら、それは商品ですらなく、貨幣にとっても交換の対象とならないだろう。

 もし、何らかの事情で貨幣の購買手段機能が実質的な停止状態に陥った場合(例えば価値章標の急激な減価=激烈なインフレの発生など)、商品の貨幣性を直接発動させる以外に取引は成立しない。

 貨幣形態以外の価値表現の諸形態は、資本主義以前の社会の物々交換の歴史的な発展過程ではなく、完成された商品生産関係においても起こりうるそうした事態に実例を見出すべきものである。

 とはいえ、それはあえて実例を示す必要があればの話である。問題となっているのは、実例の如何ではなく、発達した商品生産が行われている社会で、もし貨幣が使えないとしたら、諸商品はどうやって互いの価値を表現し、尺度し、交換関係を取り結ぶための前提である価値関係を形成しうるのか、という問題なのである。それは、論理的な一種の思考実験である。

 現実においても、発達した商品生産が行われている社会で貨幣抜きの交換が成立する場合がありうることはすでに述べたとおりである。しかし、これは言うまでもなく例外的な事態である。そうであるほかない理由は、貨幣抜きに諸商品が自己の貨幣性を展開することには、固有の限界が伴うからに他ならない。

 貨幣抜きの価値表現は、よりプリミティヴなものから、展開されたものへと、商品の貨幣性の論理的な本性に即して、非歴史的な、共時的発生としての自己展開を遂げる。それは、表現されるべき価値それ自体の性格に即して、必然的な過程である。そしてその行き着く先が貨幣形態なのである。

 

 まとめよう。マルクスには、少なくとも、『資本論』には、貨幣の起源論、歴史的発生論といった議論は存在しない。あるのは、全面的に発達した商品生産における諸商品の貨幣性の必然的な表現形態としての貨幣形態を、その根拠である諸商品の貨幣性から基礎づける、貨幣存立の論理の共時的な展開だけである。